井の頭歯科

 新国立バレエ バレエ・コフレ を観ました

2025年4月2日 (水) 09:34

 

新国立バレエ バレエ・コフレ 私は3月16日の最終日に観劇しました。
プログラム
1火の鳥
2正確さによる目眩くスリル
3エチュード
火の鳥 はストラヴィンスキーの曲で振付はミハエル・フォーキン
物語のある演目ですし、非常に筋が分かりやすいバレエ作品。イワン王子が火の鳥を捕まえようとするも、魅入られて火の鳥の羽をもらい受けて逃がす。魔王カスチェイの呪いにより王国が支配された国の王妃からイワン王子は懇願されてカスチェイの呪いを解こうとするも、難しいのですが火の鳥の羽を振り、火の鳥がカスチェイを眠らせる。その隙にイワン王子がカスチェイの大切な魔力の源である卵を壊して平和が訪れる。というストーリィです。
まず、生のオケの音楽の素晴らしさは非常に堪能できました。衣装含む美術も素晴らしかった。
火の鳥の踊り手の踊りが凄く小さく感じます。2mくらいの距離で観ていたら気にならないかも知れませんが、劇場ではどうしても存在感と踊りの小ささが気になってしまいました。主役でもあり、踊りも鳥、それも火の鳥を連想させなければならない非常に重要なキーなのですが、ちょっと残念。鳥を連想させる軽やかさ、俊敏さがもう少しあった方が良かったと思います。ムズカシイ事だとは思いますし、出来ているダンサーが少ないと思いますけれど。既に何度も観ている演目だったり、海外のバレエ団でのDVDなど見てしまっていると、どうしても比較してしまいます。その上で生の素晴らしさを出さなければならないわけで、酷な表現になってしまいましたが、もう少し大きく身体を使って欲しかった。
イワン王子は逆に踊りが少ない分、存在感が必要。観てすぐに王子と分からせなければならないが、異国の話しで、さらに王子となると日本ではとても無理な要求なのかも知れません。それでも、例えば強引さのようなマイムを演出するとか、火の鳥との踊りの際の捕まえている、という部分に王子性のような優雅さみたいな補強が欲しかったです。
いつも思いますが、バレエの本場ではないこの国では、踊りのステップや改訂を行わずに、世界観を補強する演出は必要だと思うのです。ラスト近く、王妃との頬を合わせる挨拶のようなキスシーンのような場面がありますけれど、こういうシーンを恥ずかしがらずに全力で、その気持ちを持って、演じるのではなく行う事が必要なんだと思います。これを日本のどのバレエ団も非常に疎かにしていると思うのです。すぐに改善できるものであり、それだけで世界観を醸し出せるので、恥ずかしがらずにやるべきだと思います。踊りが正確であれば良いというものでは無く、観劇であるわけで雰囲気作りや世界観に没入させる演出は重要だと思いますし、ココで恥ずかしがられると、凄くお遊戯的に見えてしまい残念だと思います。これは海外で公演しないと肌感覚として難しいのかも知れません。新国立バレエは今後海外での公演があるそうなので、そこで批評される事は今後にきっと役立つと思います。
特に日本のバレエの世界は批評があまりに少なく、元ダンサーだけではない批評家を育てるべきだし、そこから気付きや変化に繋げて少しでも一般層への浸透を考えないと難しい状況だと思う。あまりにダンサー向け、経験者向けだけでは広がりようがないとも思ったりします。
それも出来れば面白く伝え批評出来る人が必要。動画配信でも良いので、ウォッカ・ゴリラさんの様な人が増えて欲しいです。
2正確さによる目眩くスリル
音楽はシューベルトで振付はウィリアム・フォーサイス。
男2名女3名の筋の無いバレエ。この5名の中では最初に舞台向かって左手で踊る男性が非常に良かった。ストーリィやキャラクターに頼れない分、まさに踊りですべてを表現しなければならないので、非常にハードルが高いと思います。さらに、タイトな衣装を着ている分、より身体のラインでも説得力が必要になる点で、この後の「エチュード」のように同じ物語の無いバレエの中でも、踊りに焦点が絞られていて、ある種残酷と感じました。何故なら、アジア人である日本人の体形がそもそもバレエに向かない可能性を感じてしまうからです。男性の方がまだダイナミクスを感じやすいけれど、女性の場合はともすると幼児性とか未発達性を感じやすいと思いました。もちろん皆技術は良いのでしょう。そして一定レベルの基準に達しているのでしょうけれど、そういう事とは別に、舞台、生の観劇で映えるか?という点も重要なポイントだと思います。海外のダンサーでのこの演目はまだ観た事が無いので何とも言えない部分はありますけれど。
でも初めての演目、楽しかったです。
3エチュード
音楽はカール・チェルニー/クヌドーゲ・リーサゲル編曲で振付はハラルド・ランダー。
いわゆるバレエのレッスン、ダンサーの練習風景を、その1日を追いかけるような振付。これまたテクニカルな演目。
まず、何と言っても水井駿介さんが素晴らしかったし、この人目当てで観劇しているので、どうしても目がそちらに行ってしまう。牧阿佐美バレエで魅せた「アルルの女」があまりに良かったので、追いかけていますけれど、この人だけが次元の違いを感じさせるバレエでした。
もう1名の男性のソロの方も素晴らしいバレエだと思います、普通なら。中心に居つつ周囲を4名のダンサーで回転する場面も、確かに素晴らしいし拍手が起こるのも理解出来ます。ですが、頑張ってる、が観客に伝わってしまうのはあまり良い事ではないのではないか?と思うのです。安定感と安心感の上に余裕を感じさせ、ギリギリの限界ではなく、余裕を持っているかどうか?は演技の幅に大きな違いを感じさせると思います。
衣装に上腕に膨らみを持たせた衣装、逆に言うとそれ以外はかなりタイトな白一色の衣装なので、どうしてもエレガンスさを出すのに向いているはずですし、それを理解してコーディネートされているはず。それを醸し出していたのは水井さんだけだった・・・と私は思いました。
女性主役のダンサーは、私が読臭として映像でいろいろ観てしまい、ドロテ・ジルベールで観てしまった為に、だと思いますけれど、どうしても、もっと、と言う感じで足りなさを感じました。それは存在感含む空間の使い方や体を大きく使って欲しいという分含めて、とにかく足りない、と感じてしまったのです。身体は絞れていますし、何か技術が足りないとかでもない。だからこそある種残酷だけれど、足りない、と感じてしまったんだと思います。
動画って本当に見比べられる、という恐ろしさがあります。しかし、これはどんな分野でも身体を使う事には通じると思うのですが、間違いなく、動画を使う事でも、ホモサピエンスの身体、技術の習得が早くなり、10年前なら世界でもこの人しか出来なかった、という技術がかなりの人が扱える技術、もちろんプロのある世界でも難しい事もあるでしょうけれど、広がったし早くなっていると思います。
技術が進歩しても、この人だけのオーラとか存在感と言われるものが実際にはあるし、このエチュードで言えば技術的正解はあるのでしょうけれど、それだけではない、魅力のようなものを出せる稀有なダンサーも居て、パトリック・デュポンには確かにあると思います。
水井さんのマズルカの特筆性は、まさにエレガント。そしてこういう事をノーブルというのだと思います。まさに高貴。人をひれ伏させるような圧力ではなく、開かれた、高揚感のあるノーブル。内側から感じさせる踊りを楽しんでいる感覚、技術的に身体的に非常に難しい事をやっているはず、なのに、全く大変さを感じさせない、この動きだからこそ伝わる何かを、そのまま提示出来る強さ、そしてここにアクセント、ちょっとした余裕、音楽的にも余裕があるからこそできる一時停止や急がない動き出し、といったアクセントが効いていると思います。だからこの人だけ妙に浮き上がって見えました。
ルグリに習っていたのは伊達じゃないと思います。
新国立バレエの年齢的な線引きや引退、もしくは椅子の数は全く分からないけれど、もし可能であれば、インタヴューで答えている通り、踊れる機会を増やすのであれば、今のポジションの方が良いのかも知れません。少なくとも新国立をもっと観に行こうと強く思いました。

「シュツットガルトバレエ団 椿姫」を観ました

2024年11月23日 (土) 12:13

 

シュツットガルトバレエ団の来日があり、椿姫を観る機会がありました。オネーギンも観たかったのですが。

 

椿姫のバレエは、アレクサンドル・デュマの小説に、音楽はショパンで、コリオグラファーはジョン・ノイマイヤー、初演は1978年です。

 

物語は単純化されていますし、バレエですから、言葉がありませんので、感じ取れる人、もしくは物語を知っていないと難しいかも知れませんし、中でもバレエのマノンをベースにしていますので、マノンについても知らないと、なかなか悩ましい演出ですけれど、知っていればかなり複雑な面白さがあると思います。

 

 

単純に言えば、19世紀のパリの高級娼婦マルグリットと、青年アルマンの悲恋なのですが、高級娼婦マルグリットはアルマンの未来を案じたアルマンの父から身を引くように言われた事で、身を引いた上で、病死。その顛末をアルマンは遺言で読む・・・という話しです。

 

 

これを3幕にしているのですが、私は今までに、パリオペラ座のアニエス・ルテステュとステファン・ビュリオンが演じたものと、エルベ・モローとオレリー・デュポン(?たしか)が踊ったモノを観ています。そのどちらも非常に魅力的で、アニエスのマルグリットとビュリオンのアルマンは、まさに、大人の女と子供の青年の繋がりを感じさせますし、逆にエルベ・モローの踊りはアルマンの主体性を感じました。内に秘めたる何かを踊りに昇華する感覚がありました。

 

 

今回はフリーデマン・フォーゲルで味わったのですが、これが素晴らしい。

 

 

恐らく現在40歳を終えているダンサーなのに、舞台では若さを爆発させています。ちょっと年齢がシンジラレナイくらいでした。今まで観た中ではビュリオンの踊るアルマンに近いのでしょうけれど、もっとエレガント。余裕を感じさせる踊りなのに、若々しさがあるのです。音のリズムにピッタリで、且つ余裕を持たせているのは、恐らく動きの止めと動きの出だしの部分に、一瞬静止するんですが、その静止のピタリとはまる感じが、今まで観てきたダンサーよりも、恐らくシュツットガルトバレエはノイマイヤーの初演のバレエ団だからこその、何度も踊ってきた余裕なんだと思います。

 

 

必死さが伝わる事で良いこともあるのでしょうけれど、軽々と演技する事の方がより難易度が高いですし、何と言っても余裕を感じさせてくれます。特に、パドドゥの相手を敬う優しさはその着地や、支え方に現れると思います、私はバレエ経験者ではないので、正直全然ワカラナイのですが、観客として観ていると、そう思います。特に着地に、力の方向が床に向かっているままにしない、極端に言えば、着地させる瞬間に引き上げているように見えるのが、本当に素晴らしい。こういう気遣いこそ、紳士のなせる技ですし、難易度も高く体力の消耗は著しいはずなのに、さりげなく行えていて素晴らしい。

 

 

フリーデマン・フォーゲルが完全に舞台を支配していたと思いますし、踊りも表現も完璧に近い、好みの演出でダンサーでした。あまりにリフトが多いので、本当にキツイと思いますけれど、微塵も感じさせない完璧さ。

 

 

幕が下りた後、観客に応えるフリーデマン・フォーゲルは、全くの別の人、急に老け込んだ感覚がありました。どれだけ体力を消耗し、どれだけ役にのめり込んでいたのか?そしてアルマンというキャラクターがどれほど本人と遠い存在なのか?を理解させられる瞬間でした。本当に凄い人。

 

 

といい所ばかりですけれど、逆にマルグリットを演じたエリサ・バデネスにはかなり落胆しました・・・バレエは身体の動き、踊りで表現するものですし、その上で演出で、表情も重要なポイントを担う事があるのは承知しています。が、顔の演技が強すぎるのは個人的にどうしても受け入れがたいです・・・なんというかオーバーに感じてしまい興醒めです・・・

 

 

 

それと、あまりにオーバーな踊りも好みでは無かったです。とにかく顔の強さが・・・

 

 

日本のバレエを習う、もしくはプロとして踊るダンサーは、バレエを踊る自分が大好き、というタイプの人ばかりで、ごくごく僅かに、バレエが好き、という人が居る感覚があるのですが、なので、どうしても、舞台での演技が、演技させられている感覚ばかりです。もし、頬を寄せ合うという演技があれば、そこには頬を寄せ合う動機や情熱がありそれを双方が望んでいるロマンティズムがあるからこそ、の表現であって、ただ単に頬を寄せる演技をやらされている人ばかりだと思います。なので、全ての、特に踊りでない部分の演出が、お遊戯、に見えるのだと思います。

 

 

海外のバレエ団でこの手の演出は皆無だと言って良いと思います。お遊戯をしている場面は観た事がありません。それはバレエ作品といえど、人間であるホモサピエンスが行っている限り、伝わってしまうと思います。その動機の部分や心情を理解して演じないと、あくまで頬を寄せろ、と言われたから、という形骸化しか起こらないと思います。この形骸化は、本当に害悪だと思いますし、観客に甘えていると思います。

 

 

 

プロの踊りを、バレエを観に来ているのだから、そしてここは日本なのだから、演技が甘いのは理解してくれるよね?と言っているに過ぎないわけです。同じお金を払って観劇するなら、バレエに限っては海外のバレエ団やダンサーを観る方がよほどバレエファンを増やす事が出来ると思います。

 

 

そもそもダンサーの身体として、日本人に不向きなのは理解出来ますけれど、もう少し真剣さが欲しいです。

 

 

 

こういう点をバレエの批評家は指摘してこなかったのでしょうか・・・これでは世界で勝負できるダンサーが少なくなるばかりだと思います・・・数で言えば、昔よりも大量に渡航し、バレエ団に採用されていたとしても、個性あるダンサーが、この人が観たいと思わせるダンサーが生まれてこないと思います。

 

 

 

最近新国立バレエに加入された水井駿介さんいは期待しています、牧阿佐美バレエ団のアルルの女に出演していた水井さんは本当に素晴らしかった。

「アルルの女」

2022年4月26日 (火) 09:13

ローラン・プティ振付作品が私は好きなんですけれど、まぁバレエの話しは凄く伝わりにくいですよね。言葉が無く、しかも日常的に踊りを使って表現する、という事に慣れていない上に、私はそもそも踊った経験がほぼゼロですから、文脈的にも、マイム的にも、意味が読み取れるように(すみません、おそらくダンサーやコリオグラファーの10000分の1程度の理解だと思います。何しろ現場で何が起こっているのか全く知りませんから。経験者じゃなければおそらく全員そうでしょうけれど)なるのに時間がかかる文化です。それでも人は何かを伝える場合は言葉が最も汎用性が高いですから。言葉で説明するのが難しいと思うのですけれど、そういう場合は比較するのが最も分かりやすいのではないか?と考えています。

40分程度の作品ですし、そもそもアルフォンス・ドーデの大変短い、わずか10ページほどの小品小説です。その作品に基づく戯曲のためにジョルジュ・ビゼーが作曲した組曲でもあります。凄く有名な曲もありますし、サックスという楽器が使われている最初期の曲という事でも有名です。その作品をバレエにしたのがローラン・プティです。

振付の意図や効果について私ごときが分かることは大変少ないですし、理解できないと言い切って良いのですが、踊る人が異なるだけで、全然違う感覚になります。

私が最初に見たのは牧阿佐美バレヱ団の公演で、2000年になっていなかったと思いますが、まぁ昔です。でも非常に鮮明な記憶として残っています。その後動画配信で見たマニュエル・ルグリの踊りが本当に凄かったので。

その後、オーチャードホールの25周年のイベントで久しぶりに観劇することが出来ましたし、なんと言ってもとても有名な熊川哲也さんが踊っていましたから。この日の演目はほぼ全て振付を熊川さんが行っているのに、自分が踊る作品はプティなんだ、という疑問は湧きましたけど、それでもアルルの女が見られるのは嬉しい。熊川さんのダンスは大変アクロバティックですし、映えますし、もちろん一流です。でも、フレデリという青年の苦悩、というよりは、熊川さんというダンサーが表現するダンス、を見ているという気持ちになりました。ヴィヴェットも大変有名な吉田都さんが踊られましたが、もちろん素晴らしかったのですが、ルグリとイザベル・ゲランのような衝撃があったか?と言われると、どうかなぁとも思いますし、あくまで私の個人的な好みの問題でもあると思います。

その後も違った人の動画を見てみることはあったのですがルグリほどのショッキングさは無かったのですが、先日、水井駿介さんという若い日本人のダンサーが踊っているのを見たのですが、この人が本当に素晴らしくて。

そもそもこのバレエ作品の中でファムファタルである名前の無いアルルの女、という人物は舞台上に現れません。だから説得力を持たせられるのか?というのは主演のフレデリを踊るダンサーの力量に強く左右されます。不在の運命的な女性に惹かれていることを、自分の踊りだけで表現しなくてはならないわけです。で、それが見えるように、存在しているように感じさせるプティの振付と、フレデリを踊るダンサーの技術だけでない、何かに取り憑かれた男性の狂気、まで見せつけられた時の説得力は、非常に相乗効果を生んでいると思います。逆に言えば、説得力がない、狂気までは感じないと、とても不完全に感じられやすいと思います、簡単に誰でもが踊れる作品ではない気がします。

それとフレデリの許嫁であり、結局は身を引く事になるヴィヴェットを演じる青山季可さんというダンサーも素晴らしかったです。水井さんとの対比、という意味でも素晴らしかったです。

ファランドール前のある行為でスイッチが入ってしまった、狂気の一線を確実に彷徨っているのではなく、乗り越えてしまった、躁鬱が短期間に入れ替わる様をダンスで表現されていて、しかもクレッシェンドがかかる音楽、覗いてしまった窓の存在、それまではあくまで視線の先にいたファムファタルが狂気の中でフレデリの腕の中に存在する瞬間を見せ、世界を拒否する仕草、畳み掛けるこのあたりの振付に驚嘆します。もちろん、それまでの布石があったからこそ、なんですけれど。群舞の表現の素晴らしさも当然この作品には必要非可決です。ですが、私が最も強く心動かされるのは、ファランドールという最終章の、フレデリという1人の男性の、自分の力では抗えない魅力と確実に破滅しかない未来であっても恭順してしまう、身を任せてしまう狂気の所業に、恐ろしさと共に、なんとも言い難い神々しさも感じます。我を忘れる、というのは究極の魅力があると思います。

才能、そして、波及。

2021年3月18日 (木) 11:29

才能、センス、そういうモノに惹かれます。

ある決まった様式があり、その様式を極めつつ、さらに解釈を広げ、その先を目指す。そういう飛び受けたセンスを、カリスマ性がある、とか天才、と呼ぶのだと思います。

型を知った上で型破りが行える、自己流ではなく、基本、基礎を身体に沁み込ませる努力なくして、その先は存在しないと思います。そして、映像やら資料が蓄積され、誰もがその存在を知った上で、その先を見せる事は、とても難しくなっていきます。テクノロジーが発達すると、誰もがある程度のレベルへ行ける代わりに、オリジナリティが生まれる機会がぐっと少なくなるのではないかと思います。

フットボールで言えば、ペレの時代にオーバヘッドシュートを放てる人は世界に5人もいなかったはずですけれど、現在のフットボールでは、恐らくプロのほとんどの人が出来ると思います。真似る事は簡単ですけれど、オリジナリティを生み出す事は、とても、とても稀有な事だという事です。

私は生で見た事がありませんし、彼のオリジナリティを言葉やテクニカルの部分を説明する事が出来ません。しかし、明らかに、センスがあり、他の誰とも違うオリジナリティを感じさせ、その上、型破りな突き抜けを感じます。エピソードにも事欠かない(映画祭に呼ばれて参加したために、レッスンを休んだので団からの解雇を告げられたり、全然練習に来ないのに、いきなり本番のごとく出来たり・・・)まさに型破りな天才がこの世を去りました。

パトリック・デュポン (1959.3.14-2021.3.5)

パリオペラ座のエトワール。私が認識したのは、引退してからですし、僅かな作品しか知りませんけれど、バレエは古典芸能なので、特に、演者が誰なのか?が光る芸術だと思います、落語にも共通する部分があると思います、そういう意味で。

「失われた時を求めて」をローラン・プティが振付したこの作品は音楽と言い、振付と言い、個人的には1番どの演目よりも好きなのですが、最初に観たのはこの作品でした。本当に素晴らしく魅力的です。

落語的、と言う意味で1番分かりやすいのは、多分、永遠のアニキ、ベジャール先生の振付した「ボレロ」だと思います。古典芸能(とはいえ多分まだボレロという演目はコンテンポラリーに属すると思います)ですから、細部の違いが分からないと、この凄さは理解しにくいと思いますし、私もほぼ何も知らないに等しいのですが、まぁボレロと言ったら、普通はジョルジュ・ドンなわけです。ベジャールはドンに振り付けているわけですし。個人的にはデュポンのボレロを見るまでは、ダンサーの好みとして、マリシア・ハイデのボレロが変則的であっても面白かったし好きだったのですが、自分の好みが更新された気がします。その後様々な踊り手がボレロを踊っていますし、映像にも残っていますけれど、女性で言えばシルヴィ・ギエムも圧倒的なんですけれど、この追悼のタイミングで観たデュポンのボレロはすさまじかったです。キレのソリッドさは(こんなに映像として古くて不鮮明なのにも関わらず!!)、多分誰よりもキレッキレだと思いますし、1番恐ろしいと思ったのは、そのAndrogynousです。

首藤さんのボレロ

デュポンのボレロ

生では私は首藤康之さんのボレロを観た事があるのですが、首藤さんの場合はとても日本的で、両性を消す方向に働いていると思いますし、とても能とか詫び錆びを感じられます。が、デュポンの場合は両性ともが激しく主張し合っているのに、統合されていて、恐ろしく感じます。ちょっと見た事が無いです。そう言えば確かに普段からAndrogynous的な魅力があったと思います。

残念がれたり、惜しむほど、生前を知らなかったし、理解出来ていなかったから、悲しむという程の事を言える立場には無いのですが、残念だと思います。この人が指導者として、育てた人を見て観たかった。天才と簡単にカテゴライズされるのは、多分本人は嫌だったんじゃないかな?と思うのですが、それでも、個性溢れる唯一無二(とはいえ全員人間としては唯一無二なのは当然だとして、バレエダンサーとして、と言う意味)のダンサー。

そしてもう1人、全くジャンルは違いますけれど、長く第一線で活躍され、今年51歳になる私は幼少期から見ていたわけですが、その当時は全く認識していなかったのに、その方の仕事をそれこそ繰り返し、何度も何度も見続けた結果、ある種の刷り込みまでされている、と言ってよいと思いますし、私と同世代で観た事が無い、と言う人はほとんどいないと思います、ただ、それが大塚さんの仕事だとは気がついていないだけだと思います。

大塚康夫  (1931.7.11-2021.3.15)

私が最も見ている大塚さんの作品と言えば、間違いなく「カリオストロの城」です。

幼い頃に刷り込まれているので、どうしてもワクワクしか感じません。よく考えると本当におかしなストーリィなんですが、それを越えて、動きの面白さ、音楽の素晴らしさ、演技の妙があって、何度でも観てしまいます。


全然ジャンルは違いますけれど、偉大、と言う意味では同じですし、また地上が味気ない世界になったと思います。

「オネーギン」を、パリ・オペラ座 東京公演 で、観ました

2020年3月10日 (火) 11:16

ジョン・クランコ 振付   パリ・オペラ座

シュツットガルトバレエ団のジョン・クランコが振付した名作ですが、最近パリ・オペラ座のレパートリィにも入ったようです。そういえばノーブルの代名詞マニュエル・ルグリがアデュー公演で最期に踊ったのも「オネーギン」でしたね。私も昔にシュツットガルト・バレエの東京公演を観に行きました(の感想は こちら )けれど、その時のオネーギンを演じたエヴァン・マッキーの素晴らしさは、決してパリ・オペラ座のエトワールに勝るとも劣らない輝きがありました。

今回の主役オネーギンを演じるには、日本人に大人気!マチュー・ガニオさんです、もちろんエトワール(パリ・オペラ座の最高位のダンサー)ですし、そして私個人が思う日本人にとっての人気の理由は、2世である、という事だと思ってます。つまり、お父様であるデニス・ガニオがこれまた素晴らしいダンサーで、もちろんパリ・オペラ座のエトワールだったことに加えて、お母様はドミニク・カルフーニです。私の中で今までで1番面白かった、興味深かった、心動かされたのが、ローラン・プティ振付 『失われた時を求めて』で、その中でも、デニス・ガニオとドミニク・カルフーニが出演している版が最高傑作だと思っています。その舞台はつまりマチューにとっての父と母が出演しているわけです。ですので、大変期待しているわけですが、なんとなく、マチューさんは、すごく優しくて、坊ちゃん、な感じがします。その辺が日本人に好かれているのかも、とも思う訳ですが、何といってもパリ・オペラ座のエトワール。それはパリ・オペラ座の期待も大きいでしょうし、2世の方の大変さを想像すると、尊敬に値します。でも私はお父様のデニス・ガニオが好きなんですけれど。それに2世とか関係なくて、バレエの表現、舞台の上で何をしたか?が全ての世界だと思います。(蛇足の蛇足ですが、2世が好きなのってそこに物語が入ってくるからで、しかも血脈という物語は大変強い作用がありますよね、日本人ってこういうの好きなんだと思います。)

恥ずかしながらオネーギンの小説を読んだ事が無いので、話しのあらすじしか分からないのですが、やはり主役オネーギンの心の動きが、その機微がテーマになっていると思います。そういう意味で、男性が主役のバレエ。とても珍しいと思います、普通女性が主役ですから、ジゼルにしても、白鳥にしても、眠りにしても。それでも、だからこそ、の面白さがあると思います。オネーギンのヒロインであるタチアーナはあくまでオネーギンという軸に影響を与える人物でしかない、とも言えるキャラクターです。今回はアマンディーヌ・アルビッソンさんが踊られました。

アマンディーヌさんは私はあまり良い印象を持っていなかったんですけれど、そしてそれは、やや大柄な、という印象だけだからなんですが、踊りは大変美しかったですし、大変大きい空間を支配する感じ、ありました。まるで舞台が狭く感じるかのような、という事です。もっと陽気な、キトリとかだとどうなんだろう?と想像してしまいます。タチアーナとしては、やや大柄、と思いましたけれど、とても良かったです。もちろん好みとしては、もう少し小柄な方であれば、最後の腕と反対に顔を向けて「Get Out」の鋭さが出たように思いますけれど、その辺は好みの問題だと思います。

もちろんマチューさんの雰囲気、オーラは、どちらかと言えば、王子向きだと思います。王子という事は結婚前のナイーブさを内包しているからこその、ダメな選択を選んでしまうからこそ、物語が動く、という大変重要かつ少し抜けている、でも美しい、という難しい注文に答えられるキャラクター、そうはいないと思います。そういう意味ではマチューの王子の説得力は極めて高いと思います。が、オネーギンとなると、1幕では都会の紳士が都会にも飽きて田舎に来てはみたものの、もっと飽きている、なんなら全てに飽きて、虚無さえ感じている若い男を表現しつつ、3幕では、ついに、初めて、心の底から手に入れたい、と思えたのは既婚者でありかつて自分が何とも思わなかったからこそ手紙を目の前で破いて捨てる行為までして去った女性タチアーナであった、という不幸、というか自業自得ではありますけれど、しかし、頽廃した男性であるオネーギンにとってはこの順序でなければ欲しえなかった理由にも配慮がなされた演出でもあり、大変難しい役どころが求められます。

1幕のオネーギンの冷たさ、すべてに飽き飽きしている熱の少なさには、マチューの今までの雰囲気とは異なる、大人の感じ、あったと思います。しかし、3幕でギャップを感じるほどでは無かった、と感じました。1幕と3幕のギャップこそ、オネーギンのオネーギン性なるものの中枢だと思っているので。あくまでマチューが演じているオネーギン、という感じがするのです。これは役者さんでも同じですが、どんな役を演じていても、その人に見えるという役者よりも、様々な役を演じ分ける事が出来る役者を「表現のある」と形容する事と一緒だと思うのです。それでもマチューさんは素晴らしかったです、少しよろける感じを受けたのも、コンディションのせいかも知れませんし、私の思い過ごしかも、とも思いましたし。

公演の最後、カーテンコールで何度もたくさんの拍手を浴びたあと、何度目かの幕が上がってびっくりしたのは、ダンサーや指揮者だけでなく、私は初めて、関係者が私服で舞台袖から出てきて観客席に手を振る、という場面に出会いました。とても暖かな対応だったと思います!そして私服のドロテ・ジルベールさんが観られたのは嬉しかった!彼女の輝きが、例え今では少し陰りがみられたとしても、かつての、あの特別な、神に愛されたかのような、笑顔と踊りには、いつまでも称賛すべき価値がある、と思います。マニュエル・ルグリのスーパーバレエ・レッスンで見せた、まだエトワールになる前の、ロメオとジュリエットの演技の凄さは驚嘆としか言えなかったです。そして相手役はエルベ・モロー!個人的にはかなり好みの人選です!

最後に、コロナウィルスの影響で、舞台芸術は多大なる損害を受けていると思います。政府からは不要不急の外出や不特定多数の集会を自粛要請のある中ではありますが、不要不急とは人によって違う事も理解出来ます。それぞれの判断も重要だと思います。また、ライブハウスに音楽を聴きに行った方が、さも、ライブハウスで、感染した、かのような報道がありますけれど、それを証明するには、その方の行動、その方の近くを通った、同じ公共交通機関を使った人全員が、もっとはっきり言えば確定診断をしないと言えないと思います。恐らく既に多数の無自覚の感染者がいると思われますから。冷静に、そしてそれぞれの判断で、それぞれの行動をすべきです。私は公演を行ってくれたパリ・オペラ座に、NBS(日本舞台芸術振興会)に感謝したいです。

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