クリストファー・ノーラン監督 ワーナーブラザース
前作の「バットマン ダークナイト」(正確に言うと、その中のジョーカーというキャラクターの面白さ、それも演じた役者さんの演技も相まって)が面白かったのと、まだ観たことが無いので3D映画を観てみたかったことと、どうせ観るなら3Dの中でも最も良いとされているIMAXを体験してみたかったのと、ヒマだから観てきました。
川﨑まで足を伸ばしてみたのですが、朝1番の回、しかも会場前にはもう列をなしています。恐る恐るチケット購入して座席につくと、これが結構空いてました!良かった。座席の座り心地も良く、確かに映像はとても綺麗で、何となくの思い込みでしたが、3D用の眼鏡をかけるのかと思っていたのですが、そんなもの無いんですね。私は常時眼鏡をかけているので、その点はありがたかったです。また、音響も素晴らしかったです。難点は冷房が効きすぎていることです。が、映像の凄さも大事な要素かもしれませんが、やはり映画でなければ出来ない何か、にどうしても3Dでなければならない、というものは今のところ無かったように思います。
コブ(レオナルド・ディカプリオ)とアーサー(ジョゼフ・ゴードン=レヴィット)は産業スパイ、ただ扱うものがデータではなく、他人の頭の中のアイディアを盗むという特殊な訓練を積んだプロフェッショナルです。ジェラルミンの鞄の中にある装置を使って、そこから伸びるコードを繋げば、他人の夢の中に入り込める技術を持っています。つまり同時に同じ夢を見ることが出来るのです。ただ、誰の夢の中に潜るのかによって、また、その深さによって、環境は変わっていきます。夢の本人は知られたくない大事なモノを、夢の中の金庫にしまってあり、その夢に侵入してくるものを排除しようとする訓練を受けることで、アイディアを守ろうとします。そんな特殊な産業スパイのコブのもとに大企業家で富豪のサイトー(渡辺 謙)が現れ、ある仕事を要請されます。その仕事はさる独占企業の会長がいま、亡くなろうとしている、その息子に頭の中のアイディアを盗むのではなく、企業を分割するように記憶を植えつけ(INCEPTION)てくれないか?と。成功したならば、コブが帰れなくなっているアメリカ入国を実現させることを約束してきます。その為にも最高の仲間を集めろ、と。コブは帰国できない理由があって、そこには根深い問題があるのですが・・・
というのが冒頭の流れです。が、とにかく展開が早いですし、もう少し丁寧に扱っても良いモチーフやら、手順やら、キャラクターやら、盛りだくさんです。産業スパイのやり口や、夢という『何でもあり』の世界をルール付けるのがなかなか難しく、非常にアンバランスな面がかなりあるのですが、強引な銃撃戦や、特異な映像を使って観客の目を釘付けにします。
しかもガジェットとして、「トーテム(夢と現実を区別する為の1人1人違った手のひらに収まるオブジェ)」だの、「キック(強引に夢から醒めるようにする衝撃のこと)」だの、「設計士(夢の設計細かくする人)」だの「調合師(睡眠導入のためのレベルに合わせた調合を行う人)」だのが目白押しでして、もっと細かく丁寧にやって欲しいです。また、アリアドネというネーミングは良かったです、ギリシャ神話ファンとしてはイイですし、実際合ってます。夢の中の夢、の中の夢、の中の夢・・・と延々に続く世界観はなかなか繰り返されるモチーフですが、私は好きなネタです。それにこの不安感が映画を見終わった後の感覚に非常に合うと思いますし。ただ、それだけ映像ではなく、心から落とし込まなければなりませんし、今回の映画でそこまで落とし込まれているか?といえば、ちょっと難しいかな、と感じています。理由は消化不良、です。
これは映画を見た方といろいろ話し込みたくなる映画でして、もし、アメリカのドラマであれば、もっと面白く出来たと思います。まず普段の産業スパイをオーソドックスに見せ、大きなプロジェクトを任され、合間合間にコブの過去を少しづつ見せて行き、仲間を集め、そしていつものスパイとしての情報を盗むという行為から、植えつける(INCEPTION)という難題に立ち向かい・・・と、とても時間がかかります。が、この映画はそれを2時間30分で行うことに無理があるように感じました。だからどうしても消化不良ですし、産業スパイというアクションの大きな流れと、どちらかと言えば主題のコブの過去と、夢、脳、愛の話しの両方に消化不良な感じが否めません。もっと夢の中のルール、銃撃戦を差し込むための説明、モルとの関係、構築した世界、アリアドネとの接点、コブの内面の葛藤、列車のなぞなぞ、様々な事柄において消化不良のように感じました。
ネタバレはなしですが、明らかに私の解釈は夢の話し、です。多層の構築を見せる手際と構成力は素晴らしかったですが、扱うには時間が足りなかった、というかそもそも映画向きではなかったのではないでしょうか?
もっと個人的な意見ですが、モルのキャスティングに不満あり、です。
村上 春樹の傑作「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が好きな方にオススメ致します。ある意味、百科事典棒の話しですから。
リサ・モリモト監督 ポニーキャニオン
ここ数年で仲良くなった友人にオススメして貰った映画です。日系アメリカ人監督による特攻の生き残りの方々へのインタビューを主にしたドキュメンタリーです。監督の叔父がやはり特攻の生き残りであったという事実を知った監督が、アメリカ人の想像する「特攻」と日本人の考える「特攻」の隔たりを見事に浮かび上がらせてくれます。しかも淡々とした口調で。
特攻、に対する映画を見る前の私のイメージでは「戦争という極限状態の中で、さらに極端に悲惨な状況を受け入れさせられた人」という認識でしたが、その当人たちのインタビューで浮かび上がってくるのは、恐れや迷いや葛藤であり、そして多くの同窓の仲間が死んで行き自分が生き残ってしまったという慙愧の念に囚われている人もいる、ということです。恐らく世論という圧力もあったであろうし、また上官からの無言の圧力もあったと思います。また、私の知らない、この映画でも描かれなかった様々なケースもあるでしょうけれど、悲惨であったことに変わりはありません。
生き残った方々のインタビューは、非常に言葉を選ばれる、また発言ひとつひとつが重く感じられますし、例えば「もちろん死にたくないが、日本が包囲されていることも知ってたのでどうしようもなかった」という主旨の発言がまた言葉以上に、また私の想像以上に重いです。何人かの方々がインタビューに応じているのですが、そのどの方も感情的にならず、淡々とそして言葉の意味を噛み締めながら応えられます、そのまなざしの「まっすぐさ」にも、何かしら心を打つものがあります。
また、特攻を受けたアメリカの船の生き残りの方々のインタビューもされていて、攻撃された側の体験もつぶさに話されますし、映像として記録にも残っています。まさにすさまじい映像です。戦争ですから当然なのかもしれませんが、悲惨の一言に尽きます。
特攻隊員であった叔父を偲ぶような雰囲気の中で行われた、その息子さん方(3人いて娘と息子2人)とのインタビューの中で特攻に対してのイメージを応える時の、息子さん2人のあまりにかけ離れたイメージの違いにも妙に納得してしまいました。男らしく、とか強い、というイメージではなく、国を救うための良いイメージと、何故こんな過酷な状況を受け入れるしかなかったのか、というどちらかというと悪いイメージの両方が印象的です。
そして何より、生き残った方々のその当時の状況認識と、どうしようもなかったという感覚を語られる際の言葉の数々が、どうにも漠然としていて、しかし漠然としてしか語れない『空気』をそのまま言葉にしてくれているように感じられました。また、知らなかった特攻を行い戦術として使った最初の上官は「下策」という風に認識していて、これによって戦争が終結することになる(という天皇陛下の判断に繋がるのではないか?と考えた)と望んでいたという話しを知ることが出来たのは良かったです。
あくまで、私個人の意見ですが、この映画を見終わってやはり、どうしようもなくどうしようもない、と思います。
特攻に出撃する方の妻子が、特攻に出る夫の心労を考え心中するという、本末転倒な悲劇を1例でも生んでいる以上、軽々しく「君のためにこそ死にに行く」なんて表現が出来る無神経さにどうしてもひっかかりを感じます。単純な思考停止を生む悪意が隠れていると思うのです、それを映画にするという表現手法がまた。誰かと思ったら石原慎太郎さんでしたか、納得。もちろん石原さんのような方も必要ですが、ね。
4000人の方々の出撃、そして沈んだ船舶はわずか40、決して効果的であったわけでもないのかと考えると、本当にどうしようもないどうしようもなさを感じます。そして、勇ましさと言いますか、男らしさとか、いわゆるマッチョを全面に押し出すことの滑稽さ、というものを感じます。侍の美学も、もちろんありますが、侍の滑稽さも、多分あると思うのです。最後の方の竹やり云々はもう滑稽さと言えると思います。
極限状態について興味のある方に、そして美学の良い面と悪い面の両方を感じられる方にオススメ致します。
佐藤 正午著 光文社
患者さんにオススメしていただいた本です。佐藤 正午さん、初めて読みました、なかなかの読ませますし、物語に引き込むチカラがあります。リーダビリティ高く、そのうえ様々なフックがあって続きが気になる仕掛けになっています。
ある人物のモノローグで綴られる、ミチルという1人の女の、巻き込み、巻き込まれる人生を打ち明ける話しです。ある地方都市に住んでいたミチルが、ちょっとしたキッカケから東京に出て、流されるままに行動し、追い詰められていく話しです。本当に些細なキッカケですし、衝動的過ぎる話しの発端ではありますが、絶対にない、とは断言できない今の若者の(って感じがするようになってくることで中年に足を踏み入れた私を強く実感!)感覚を上手く掴んでいるとも言えますし、少々強引だとも思います。その些細なキッカケに、ある幸運に恵まれたことが重なったことから端を発する、周囲の人々との間に溝や、ある一冊の本、そして知る由も無かった人物の知らなかった面、とにかく続きが気になります。
語り手のトーンが一定していることで、物語を引いて見られる分、勢いは削がれるかと思うのですが、そこをたくさんのフックを使って引き込みます。強引な部分ももちろんありますし、後で考えるとちょっと・・・という部分も多々あるにしろ、最後まで一気に読ませるチカラは素晴らしいと思います。
女性の中には共感出来る方と、まったくできない方に分かれると思いますが、それは感情移入出来るか出来ないか、なだけであって、ストーリィとしてフック(映画用語でいったらマクガフィンといわれるものですね)がたくさんあって読みやすく、面白いです。もちろん最初から淡々としているように見えますし、初期のいくつかの伏線はすぐに分かりますし、中には回収出来ていない伏線もある(と私は思いました)のですが、そういった予想を考えさせる暇を与えない読みやすさと、早い展開、なかなか楽しめました。
ある幸運には、それなりの不幸がくっついている、とも言える物語を軸に展開します、ぐいぐい物語の中に入り込みたい方にオススメ致します。
最後にちょっとだけ、ネタバレ含みの不満点あります!ちなみに、この本はネタバレあると面白さが半減どころか、急激に少なくなりますので、未読で読むかもしれない、という方は詠まれるのをご遠慮くださいませ。
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個人的な好みの問題かもしれませんが、高倉さんと一緒のバスと飛行機で上京したことの偶然性が分かりません。わざわざ描写する必要性(もしくは偶然であったとしても意味の無いなりの描写でもよかったのではないか?)が感じられませんでしたし、彼女の性格も、描ききれなかったのではないか?と思います。リーダビリティをあげる為の犠牲にされてしまっていたのではないか?と考えると残念です。もっといろいろな感情や葛藤があると、より、竹井のアレが増しますし。
また最後の語り手のある行為を竹井が察知するのは都合良過ぎますよね?そこまでは分からないのではないか?と思いますし、この強引さではとにかく読み手をびっくりさせたかった(という作者の作為)が透けすぎると思います。よく知っている身近な知り合いの裏の面を知ってゆくことの恐怖、に限定しても面白かったのではないか?と。ミチルの流されやすさを逆手に取った思い切った作りではありますが。
ペドロ・アルモドバル監督 ギャガ・コミュニケーションズ
何か面白そうな、週末のんびり過ごすためのものが無いか?とレンタルビデオ店で見かけたペネロペさんと明るい色彩のパッケージで決めましたが、これが素晴らしい作品でした!が、日曜日にのんびり、向きではなかったです。DVDの表紙のデザインのよさ、ペネロペ・クルスの美しさに惹かれて選びましたが、せめて裏側のあらすじくらい読んでから選ぶべきだったかもしれません。のんびり日曜日~には向きませんが、非常に練られた、作りこまれた脚本に、監督の作品にかける熱意、キャスティングも良くて、しかもどの俳優さんの演技も素晴らしかったです。
ライムンダ(ペネロペ・クルス)は姉のソーレ(ロラ・ドゥエニャス)と自分の娘パウラと共に自らの故郷である土地に帰って墓参りをし、そこに眠る両親に祈ります。故郷には叔母(母の姉)が1人で暮らしていますが、ひどく危なっかしく、どうにかならないかと気を揉んでいます。しかし引き取ろうにも家には夫がいますし、その仲もあまり上手く行っていません。叔母の家の向かいにはアグスティーナ(ブランカ・ポルティーヨ)という仲の良い女性が住んでいて、何かと叔母のことを気をつけてくれています。なんとか帰郷を済まし、暮らす町に帰ってきたライムンダに夫パコは失業した、と告白。ライムンダの仕事にかかる負担は増え、しかも仕事を終えて帰ってくると、娘パウラが待っています。パウラの表情は冴えず、しかも・・・
というのが冒頭のシーンです。説明的になり過ぎず、映像も綺麗で引き込まれます。どこかファンタジックにも感じさせる映像でこの先の展開は全く予想だにしませんでした。
基本的に夫のパコ以外には端役でしか男性は出てきません、パコにしても端役と言っていい、女性の為の女性の映画です。非常に重いテーマを扱っていますし、簡単に言及出来ない種類の話しを題材に使っているのですが、脚本は素晴らしい。現実味は無くとも、ファンタジーでもなく、だからこその不思議な感覚に落とし込まれます。もし女性が見たなら、強く共感するのかもしれません。私は非常にショックを受ける内容でしたし、母と娘の関係性の複雑さを感じました。また何事もを乗り越える強さも。
あまり言及できないんですが、こういうことは稀な例だとは思いますが、あるのでしょうね・・・酷い話しですし、ちょっとショックでした。それでもこの映画は素晴らしい映画だと思います。よく考えられたストーリィですし、出てくる女性の役者さんは皆いいです。特に私は姉のソーレを演じた役者さんは面白いと思いました。
しかし、どんなにいい映画でも受け手の心の状態(お気楽モードでした)によっては結構キツイな、というのが正直な感想です。のんびり日曜日に見る映画ではなかったですが、見てよかった映画ではあります。
関係性、ということに興味のある方にオススメ致します。
ひろ さちや著 ソフトバンク新書
これも目上の長いお付き合いのある患者さん(「戦略的思考とは何か?」岡崎 久彦著をオススメいただいた方です)との会話の中で知った本です。全く知らなかった方なのですが、かなり過激で極端な方、ではありますが、この方も自分がどう見られているか?に非常に自覚的な方とお見受けしました。ただ過激なだけではないところも多々あります。また知らなかった知識もいろいろあって面白かったです。もちろん多少意見の違うところもありますが。
いかに今の日本が過酷な状況にあるのか?という立場から、自民党への嫌悪、いじめの実情、天皇のお立場、戦争責任、教育問題などを交えて話し、そして何故このような状況に陥ってしまったのか?を探って、なおどうすることが望ましいのか?という処世を示しています。
が、とにかく感情的な部分が大きく、結構過激(笑)です。年齢をご自分で明かし、この方が70歳を過ぎているのがびっくりでした。
私も結局のところ、自民党政権の期間が長すぎたことの責任は感じますし、議会制民主主義を扱う国民の民度が無かった、と言えばそれまでのように感じますが、自民党も上手かったわけですし、少なくとも戦後の復興の凄さは認めても良いと思います。自民党内右派だの左派だのタカ派やハト派を作って党内での議論を作るのはまさに日本に合ったやり方で上手かったと思います。ただ、何事も弊害はつき物ですし、全てが良い面だけしかない、というわけにはいかないですよね。だからこそ、その責任を与党に求めるのはある意味正しいのですが、その自民党を与党にした投票民の責任でもあるのかな?と思うわけです。要は結果責任をある程度負え、という話しなのではないか?と。著者のひろさんは無責任体質が戦後に端を発しているとしていますし、その大きなキッカケが戦勝国による裁判(いわゆる東京裁判ですね、もちろんこの裁判にもいろいろと異論があるのは承知していますが・・・)は行われても、日本人が日本人の戦争責任を問うた某かの公の行為があったのか?ということに尽きる、という主旨をその原因に挙げています。私はこれには強く同意します。
反省や検証も必要ですし、そのことに対して様々な立場の方々が様々な書籍なり、検討なり、論文を書かれていますし、私の知らないいろいろな事柄があるのは理解出来ますが、1度くらい公の場で検証(「裁判」という形ではなくとも)があってしかるべきであったのではないか?と。それをしなかったのは、温情であったのかも知れませんが、時間が経つにつれて温情のはずが欺瞞になってしまったのではないかと思うことが多く(例えば終戦にしても、敗戦とは言わないですし、進駐軍は占領軍でしょうし、転進は撤退ですよね?)、デメリットが多すぎる気がします。敗者や死者に鞭打つ行為を卑劣な恥ずべき行いと見る道徳観は重々承知しているつもりですが、その結果、物事を冷徹に判断する習慣が無く、熱しやすく冷めやすい、忘れやすい情動に任せた行動が大きく、振り子の触れ幅が大きすぎるのではないか?と思うのです。
戦争を指導する立場にあった方々への責任論はあって当然だと思います、亡くなられたすべての方々にとって悲惨で悲しい事実を生んだ某かの責任はあると思いますし、それを支持した国民にも無論責任はあります。指導者の責任を追及することと、その個人を貶めることは同意ではないと思いますし、その立場に立たされれば私なんかはもっと酷い行為に及んだかもしれないのです。が、それでも、その責任を負うのは当然だと思います。また、責任と個人を分けることで、何故こういった結果になってしまったか?について考えを深めることが出来るのではないでしょうか。
あるいは、それが難しいのであれば、せめて自国民による検証や責任論をしていない、という事実はもっと広めても良いのかと思います。実際のところ、サンフランシスコ講和条約締結の際のマスコミなり学者なりの検証するような動きは無かったのでしょうか?そういう部分の『温情』が『臭いものに蓋』的な行為(あえてキツイ表現にすると)にすり変わる負の側面への考慮が足りなかったのではないかと考えます。
閑話休題
ひろさんはさらに「国家は悪である」という持論を展開、ホントに過激です。もちろんただ過激なのではなく、おそらく、これくらい強いことを言わないと溜飲も下がらないし、みんな何も知らなさ過ぎる!という憤りがあるからこそだとは思いますが。そしてだからこその教育問題への切り口も、なかなか凄かったです。中でも面白かったのは「うさぎとかめ」の童話が世界各国によって捉え方に違いがある点でした。
ただ、ここまで極端に無責任論を推し進めていくのには、私は抵抗があります。無責任でよい、というのは考え方として、前提を疑うかのような視野の広がりを感じるところがあって面白いのですが、しかしそれは考えのたがを外す面白さであって、現実にはなかなか難しいところが多いと思いますし、最後に宗教的担保を口にすることの無責任さ(宗教的救いを求めない、認めない人への軽視に映りかねない)のは少し矛盾する部分であると思います。
また、その部分に限って言えば、「唯物論者」や「無心論者」を自身の考えに凝り固まった「私が神だ!」とする存在として揶揄している部分は明らかに誤認だと思います。宗教家が宇宙の真理に基づいているのに対して、唯物論者や無心論者が自分意見に凝り固まった存在だと言及するのには、フェアでないと感じました。もちろんそういった態度をとる人もいるかもしれませんが、宗教家が宇宙の真理を語ってお布施を貪った例もありますし(新興宗教ではあっても、世界宗教であっても吐いて捨てるほどの例があるでしょう)、理性や法則や知性を用いて世界の原理、宇宙の真理を解明しようとする努力の恩恵を受けずに生活するのは今の日本ではとても難しい生活だと思いますし、また自身の考えを押し付けるよりも、唯物論者の方が宗教家よりも反証や反対意見を聞く耳を持っているように感じます。宇宙の真理という絶対の「錦の御旗」を傘に着た(宇宙の真理かどうかを証明せずに、信仰心に訴えているわけですが)行為を行っているのが宗教家ではないでしょうか?
過激さの中に面白い考え方があってなかなか読ませました、責任論に興味のある方にオススメいたします。