佐々木 中著 河出書房新社
昨年末に読んだ「切りとれ、あの祈る手を」があまりに面白かったので(個人的に読んだ本の中で2010年のベスト1です)新刊をすぐ手に入れました。今回は今までいろいろなところに発表された佐々木 中さんの文章を年代別に並べた作品集です。かなり専門的な部分もあったのですが、やはり面白い方だと思います。その言説すべてが理解できているわけでもありませんし、きっとまた読み返すことになると思います。そんな繰り返しに耐えうる文章で、言葉として話されて、語りかけてくる文章です、なにか古い言い方ですが、べき論というよりアジテーションのように感じました。思想や哲学を扱っているのに、何故か非常に日常的事柄に感じられてしまいます。クライマックスではなくアンチクライマックスを受け入れる覚悟と強さを求められるような。
時系列で古いものから並んでいるのですが、その割合早いところで、何故か村上春樹さんの「1Q84」について言及されているのですが、佐々木さんが文章を書かれるようになってからあまり時間が経ってないのだな、と強く認識させますし、こんなところにまで村上春樹なのかと思うと、複雑です。その話題性といいますかみんなが読んでるんだな、と。この作品の評価の仕方もとても佐々木さんぽかったです、切り口としても。
そして、自分の曾祖父の話しから都会に暮らす自分に広がっていく話しがちょっと意外で面白いです。わずか4ページの「魔魅に見(まみ)える」は今までに読んだどの作品とも違った面白さです。まさかそんな所に着地するなんて、です。しかも麻布にいるんですね、あの生き物が。
それから、私の頭が悪くて理解力が無いせいだと思いますが、『暴力の現在』というテーマで討議を行っている市田 良彦、絓 秀実、長原 豊たちが語られている内容が難しすぎて分からなかったです。が、何かしら気持ちの悪いモノを行間から感じました。小熊さんの著作に対する異論(私も読んでないので分かりませんが)も、佐々木さんが最後に言及していますが、佐々木さんではなく小熊さんを呼ぶべきところを、佐々木さんを討議メンバーに入れることで『我々だけが言っているのではない』的な雰囲気を醸成させようとしているかのように感じます。当時の事を肌で知る人と、後に資料からあたる方との温度差はあって仕方がないとは思います。反論もその時の個人的印象で語るよりは、こんな資料もある、というような後の人があたれるものを提示しないと、非常に不平等感を感じますし、その当事者でしか語れない、と言っているように感じました。
そして、やはりこの本の中でも特に個人的に楽しかったのが「自己の死をいかに死ぬか」における「どうせ」と「だから」を用いた恫喝と「自分と世界の滅びが一致して欲しいという欲望」の話し、そしてイエスが語ったとされる聖書の原典にある「終末の期限を切る者は悪魔である」という発言は面白かったです。心のどこかにある、終末が私の生きている間に起こってほしいという欲望の根深さも十分理解出来ました。また、原始仏典のいう「諸行無常(いわゆる詠嘆ではなく、ずっとあるものはない、固定かされたものはない)」と「一切皆苦(苦しむのではなく、完璧なものは何も無い、完全な物はないという意味)」の概念からブッダのいう『誰も救われることはない』という突き詰めたラディカルなことを表しているという話しと、そこから「輪廻転生」を飲み込ませ、普通に意味する「輪廻転生」とは違った意味を理解させるくだりはまさに佐々木 中さんのアジテーションの真骨頂のように感じました。その後のライムスターの宇多丸さんとの対談でも話題に挙がっていますけれど、原典をきちんと当たって割合びっくりするような何かは無い、当たり前のことが当たり前ではない、と認識させる強さがありますし、繰り返し、そして繰り返すその強度があります。さらに同じ問題を一神教ではどう扱っているのかにも言及してくれます。この問題について踏み込んだ人物として挙げられているのがハイデガーです。私はハイデガーも全然知らない(名前くらいしか)人ですが、ハイデガーを追いかけるよりも、こうして何かの切り口でハイデガーを知ることで興味が湧いたりします。そしてさらにブランショという人の考え方を通過して到達したアンチクライマックスには、アンチクライマックスなのにクライマックスになっています。
考えることと、知ることに興味がある方に、オススメ致します。