眠っているだけではつまらないので、またまた遊びに行きました。
普段はどんな人でも(家族以外の人でもということです)寄っていって勝手にゴロゴロいうポサミ。私が手を出すだけで猫特有の、あの横顔コシコシをしてきます。
そんなポサミに獲物を与えてみました。すると異常に関心を示しています!しっぽのふくらみにご注目!かなり興奮しているようです。
その獲物は青いねずみのぬいぐるみなんですが、とても食いつきイイです。
まだまだ子供ですね~
最後にカメラ目線のポサミを激写!良い写真が撮れました。
テレンス・マリック監督 ウォルトディズニーピクチャーズ
テレンス・マリック監督作品として以前見たのが「シン・レッド・ライン」、とても面白かったですし、何より映像が凄かったので、DVDで見たのですが、これは映画館で観なければ!という想いがあったので、見今回は!と思い観に行きました。
注意!!!
ストーリィは私の思い込みです、勝手な解釈であることを先に記しておきたいです、いかようにも取れるような自由さがあります!
1950年代(と、思われる)アメリカのある家族(父、母、息子3人の5人家族)の日常と、宇宙誕生から現在まで連綿と続く生命の繋がりと、そしてキリスト教的世界解釈(特にヨブ記的な。冒頭にもヨブ記が引用されていました)を映像で理解させるような神秘的な『何か』が映し出されているかのような映像を絡めています。父であるオブライエン(ブラッド・ピット)は仕事も家庭も大事にする敬虔なキリスト教信者でもあるのですが、音楽家になれなかったという不満を心に抱えており、自身の尺度に家族を合わせようとしています。母はそれに従いつつ、出来うる限り受け止めようとするもののその軋轢に徐々に距離を隔て、長男であるジャックは父の期待に応えられないプレッシャーから鬱屈とした毎日を送っていて、そんな日常を、壮年になって社会的に成功していると思われるジャック(ショーン・ペン)が想い馳せている、というように見えました。
見ることでしか伝えきれない光の加減と美しさと、そして何だか理解出来ないけれど『何か』が映っているかのような映像を、美しくも何処か物悲しい音楽に乗せて見せることでの効果は素晴らしいものがあり、特に自然光の元での映像は心奪われる瞬間が多かったと思います。
が、少し尺として長いという印象は否めませんでした。また、どうしてもキリスト教的な何かを知らない為の解釈の出来ない不満感のようなものも残っています。意味不明とは思いませんし、個人的解釈もあるにはありますがネタバレになってしまいます。どうしてもちょっと長いと思わずにはいられませんでした。
個人的には終盤の、波打ち際での様々な人々の邂逅と夕陽のシーン、そしてある扉を抜けてカメラの視線が非常に低く保たれたまま母の背後から日の光に向かうシーンは素晴らしかったと、映画館で観て良かったと思いました。
キリスト教的宗教的背景がある方に、テレンス・マリック監督作品が好きな方にオススメ致します。
想田 和弘監督 東風
映画「選挙」の原作を読んだ時から気になってはいたのですが、なかなか見る機会が無かった想田監督の作品です。想田監督自ら「これは観察映画です」とおっしゃっているいわゆるドキュメンタリー映画です。そのドキュメンタリーの中でもちょっと毛色の違った作品であると思います。ドキュメンタリーと言えども、その見せ方や音楽による高揚感等を使ってある一定方向への結論を作り上げることは難しくないし、そういったリテラシーは必要であると思いますが、想田監督はそれさえ受け付けないでほぼ加工なし、ナレーションや音楽なし、順序変更なし、しかもこれといったクライマックスなし、という映像作品なんですが、なかなか面白かったです。受け手にいろいろ託す勇気ある手法だと思います。
いわゆるドキュメンタリー映画監督として有名なフレデリック・ワイズマンの手法と似ていますし、意識しているという発言を目にして観に行く気持ちを後押しされました。
主な登場人物は岡山の想田監督の知り合いの柏木さん夫婦、そして柏木さん夫婦が関わっている91歳になる橋本さんです。柏木さん夫婦は福祉車両の運転をして高齢者や障害者の生活と関わりを持っています。夫の柏木さんはその運転を主に手伝っています。家に帰ると近所にいる野良猫に餌をあげるのが日課です。野良猫のコミュニティには泥棒猫が入り込んできて不穏な空気があります。また妻の柏木さんも支援を行っていて、その1人が91歳の橋本さん、とても穏やかな表情でスマートな紳士に見える1人暮らしの高齢者です。そんな橋本さんの楽しみはタバコ「Peace」を吸う事です。そんな橋本さんがある日、というのが主な入り口です。
野良猫の集団に餌をやる、という行為の問題はいろいろありますけれど、そういう問題は横に置いて野良猫もなかなかカワイイです。侵入猫に対しての距離の取り方や野良猫のコミュニティの崩れ方が徐々に変化していく様がリアルで示唆に富んでいました。
また、橋本さんのとても紳士的な態度、そして身の置き所に困惑している様も見事に映像に捕らえていたと思います。だからこそ急に橋本さんが語り出したのだと思います。
ワイズマンの映画のようなじわじわ来る高揚感(といっても私もまだ3作しか見たことが無いのですが・・・)を期待し過ぎた面もありましたが、想田監督作品もなかなか面白いです。どこにも行かない様々な感情が掬い取られていて、非常に奇妙で不思議な観賞後感に陥りました。様々なものにピントが合っているのに、全体のフレームもそれほど大きなものではないのに、その中に映し出されているものが非常に多彩で柔らかく纏められているのです。ワイズマンとの一番の違いは出演者が監督の近親者であるか、ないか、なのだと私は思いましたが、これが結構な違いだと思います。
ドキュメンタリーという手法に興味のある方にオススメ致します。
丸山 眞男著 杉田 敦編 平凡社
この本はセレクションということで、様々なものが集められていますし、講演を文字おこししたものもあって、比較的読み易いものもあったのですが、内容をおおよそ把握できているか?も微妙です。幕末期の著作、明治黎明期の著作、昭和戦前期の著作からいろいろ引用があるのですが、そのどれもが凄く読みにくいし意味が分からないもの多数!正直飛ばし読みや内容を理解出来ないまま通り過ぎた箇所多数!なので分かってないところも(誤読、誤解あると思います)沢山あります。
「超国家主義の論理と心理」に於いて開戦への決断という重い意思決定が、ドイツではなされているのに対して、日本ではその意思決定すら無かったのではないか?という指摘は驚かされました、寡頭勢力によって国政が左右されていることに寡頭勢力ご気がつけていなかった為ではないか?という指摘です。例を挙げて東条首相の独裁政に対する国会答弁がひかれているのですが、陛下の御光を受けてはじめて光る、という答弁がまた凄いです。個人的にはこの問題提起は無責任であることの普遍性に繋がっていく問題(多分今も続いています)なのではないか?と思いました。
この問題を受けて、「軍国支配者の精神形態」がさらに突っ込んだ話しをされています。
国際政治学者が日米開戦前の状況を考えて、日本が開戦に踏み切る根拠がないことは明白であるにも関わらず、開戦に到ったのはどうしてか?という問いに答えるべく、様々な証言を集めたものなのですが、これが驚愕の、しかしどこか日本人であるなら腑に落ちる、そして今も続いている山本 七平さんの『空気の支配』があったことを示唆しています。
要するに、確固たる根拠も無ければ、もっと酷いことに負けると理解していたが職務上反対意見が出せなかった、という主旨の答弁をほぼ全ての責任ある大臣や閣僚が証言しているということです。このようなことを特にドイツの場合と比較して明らかにしてくれます。
その理由をさらに詳しく明らかにしてくれます。それが「既成事実への屈服」と「権限への逃避」であり、つまり『空気の支配』をより強固にすることへの理由です。東京裁判におけるフィクセル検察官と小磯被告の供述は、恐ろしいほどにまで日本的、としか言いようのない認識論ではないかと思います。
そしてこの論文の締めくくりの言葉として丸山さんが綴ったのは「これは昔々ある国に起ったお伽話ではない」という一文が重く響きます。
「福沢諭吉の哲学―とくにその時事批判との関連」という論文もかなり興味惹かれる論文でした。
福沢という人が何をどのように考えたのか?ということに対するアプローチです。個人的にも気になっていた方なんですが、その中でも重要と思われる「価値判断の相対性」です。何かを基準に於いて距離を測るのではなく、何かと何かの間でヨリ望ましい事は何か?という判断基準をするやり方です。ですから絶対的価値は存在しないとさえ言えます。何から何まで相対化して徹底的に考えよ、ということです。プラグマティズムという意味では、鶴見 俊輔さんに近い考え方のようにも感じました。価値判断の流動性を認めるということは絶対的価値に縋るということとの決別を意味しますし、その分自身の主体性を強く求められその責任を全て背負う気概を必要とされることを普遍とすることで培われる何かが重要なのではないか?ということです。ヨリ善きもの、ヨリ正しきものを常に判断を迫られることになるわけですし、これは日本的なものと合致しないのではないか?とさえ感じます。もちろんだから必要とされるわけですけれど。
福沢先生の言う進歩(事物の繁雑化に伴う価値の多面的分化)という考えも、また側面からヨリ善き、正しきものを判断することを止めるな、ということを補強すると思います。
そして1番読み易かったのが1958年の講演「政治的判断」です。
政治的認識が高度であることが道徳的だとか、崇高である、ということは全く無いのですけれど、しかし政治的認識が低い場合は自分の意図や目的と全く違った結果(現実)がもたらされることになる、という説明でグッと引き込まれました。
政治的に言うなら、反対勢力や敵の陰謀によって騙された「結果」なのであって私の政治信念は間違ってない、というような弁解は政治的には最悪であり、政治とは結果が全てである、ということです。状況認識が甘かったことは、あるいは単純に敵の陰謀に気がつけなかった、ことが甘い判断であってその政治家を支持した私の政治的認識が低かった、ということです。
とかく政治信念という初期動機の純粋性を評価しがちですが、その評価は政治的認識から言えば低い、ということになります。この問題を突き詰めて丸山さんは民主主義という仕組みを運用するにあたっては、政治的認識が高度な政治的結果と選択が出来うる人の割合が増えることが民主主義をより運用できるようになると示唆しています。政治的選択を放棄することで恣意的結果を作りやすくもなりますし、なにより丸山さんが説かれているのは「ヨリ悪い」ことを避けることこそ政治的選択だといっています。この相対的判断は福沢先生の考え方ですよね。そして「ヨリ悪い」ことを避けるためにも全体の政治状況をいかに認識するかが重要だと記しています。
東京裁判の、勝った側が一方的に裁くというやり方の是非は問われてしかるべきでしょうけれど(ただ、現実に、リアルに、完膚なきまでに負けたわけで、その責任は誰かが背負わねばならないですし、そのことを認められていない人の発言を信用しにくいです)、東京裁判が無かったことにはなりませんし、もし、東京裁判を無かったに等しいことにするのであるならば、日本人が日本人を裁く場をもっと早い段階で設けるべきだったと思います。が、それも出来なかったですし(それはすなわち『死者を鞭打つ』方法であろうと思います、難しいですよね)、サンフランシスコ講和条約締結を経て今日の状況があるのですから、無かったことにはなりませんし、この丸山さんのように東京裁判の是非はとりあえず置いておくとして、その内容の中から今後に生かせる、何故失敗したのか?あるいは何が問題であったのか?を抽出することの方がよほど建設的で意味があり、且つリアリストであると思います。例に挙げるので申し訳ないのですが、「国家の品格」で唱えられるような『あの戦争に負けなければ』というような度量の狭い、矜持の為に現実が見えなくなることこそが、恐れなければならないことを学ばなければいけないものであるように私個人は感じました。武士道というものを持ち出しても、アプリオリに日本人が武士道を理解出来ているわけでもありませんし、武士よりも農民の子孫の方が圧倒的に多いと思われます。感情をコントロール(合理的判断の基に、ですが)できない人の為の、結局は感情的満足に理由を与えているだけのように見えるのです。またそういうことを重要視する人々から、圧倒的支持を得ているように見えます。ただ、感情があるからこその『人間』なわけですけれど。情熱(感情のこもった)のない人間は生きていないのに近いとは私も思いますけれど。そこをなんとか乗り越える理性が欲しいですよね。
政治的認識に、空気の支配に、福沢諭吉に興味のある方にオススメ致します。
実家に猫を見に行ったのですが、遊び疲れて、しかもおなか一杯のところだったらしく、熟睡中でした。
グレも
ポサミもつれない・・・
しつこくカメラを向けていると、お!寝返りの途中に目を覚ました!
おお!寝ぼけマナコ!っと思ったら、
すぐ寝ました・・・今日は写真は撮りやすかったですが、遊べなかったなぁ。