井の頭歯科

「フラニーとゾーイー」を読みました

2011年9月30日 (金) 12:01

J・D・サリンジャー著      野崎 孝訳        新潮文庫

中村 うさぎさんと佐藤 優さんがお2人共にオススメしていた本、私はサリンジャーはどうしても「キャッチャー」の印象が強くて、1人称の青春ものを想像していたのですが、非常に緻密な構成でびっくりしました。もっとも「キャッチャー」を読んだのも高校生くらいだったのであくまで印象の話しですけれど。もしかすると今読むとかなり変わった印象を持つのかも知れません、というくらいサリンジャーの上手さを感じました。

フラニーという短編とゾーイーとう短編の2つで出来上がっている短篇集なんですが、グラース家という家族の物語でもあります。グラース家の末の妹であるフラニーの身に起こった僅か数時間の出来事と、その数日後にフラニーと過ごした兄であるゾーイーとの数時間を描いた連作短編です。

グラース家は長男で家族の精神的支柱であるシーモア、小説家のテディ、長女のブーブー、双子のウォルトとウェーカー、役者のゾーイー、そして末娘のフラニーです。この小説の設定は1955年の11月、この時フラニーは大学生、ゾーイーは5歳年上で役者として生活しています。

秋が深まる中、同じく大学生のレーンは駅のホームでガールフレンドのフラニーが来るのを待っています。寒い中ホームに立つレーンが取り出したフラニーからの手紙つ綴られている言葉をもう1度目で追ってから、再会するレーンとフラニー。週末を楽しく過ごそうとする2人の会話のトーンが徐々に変わっていくのですが・・・という冒頭の「フラニー」。

ずいぶん以前に綴られた次兄であるテディから来た手紙をバスルームで読み返すゾーイーと、「フラニー」で語られた話しの後に実家に帰ってきたフラニーとの短くも非常に深く様々な事柄を扱った会話と描写を見せる「ゾーイー」という連作短編です。

少しネタバレも含んでいます、なので未読の方は出来ればご遠慮いただきたいですが、仮に結末を知っていたとしても決して作品の鑑賞の妨げにはならない緻密さがあると思います。しかし、出来ればまっさらな状態で先入観なく楽しみたい、という方は注意してください。

レーンというちょっとお高く止まったいけ好かない感じの、知識をひけらかし、またひけらかしている、という自覚のない鼻持ちならなさを非常に上手く描いているんですが、その描き方からして非常にヒロガリある、想像を遊ばせる余地を心地良く残したやり方で、個人的に気に入りました。情景を描き、その上でレーンの佇まい、あるいはホームでの同級生とのたわいない会話や、服装などから既にレーンという青年の独りよがりさのようなものを醸し出し、フラニーとの関係性を上手く理解させられます。フラニーのなんとか2人の間の空気を軽やかなものにしようという意識もあるものの、とある本を読み、兄であり、グラース兄弟の上に死して尚存在するシーモアの支配(というと言いすぎなんでしょうけれど、あくまで自主性を考慮したゆるい支配)からくる鋭い考察で「見えてしまう」レーンの底の浅さに苛立ちを感じ、抑えることのできない憔悴感を吐き出してしまうことで、レーンを通して実は同じように(レベルは違えど死んでしまったシーモアの聡明さや、言われるまでもなく神という絶対的存在から見れば所詮は同じような存在である)自分に向かっての態度なのだということに気が付き言葉をなくしていくフラニー。その過程を情景でも、服装や場面でも、そして描写でも見せてクレッシェンドで切る構成は、短編として素晴らしい余韻を生んでいると思います。

そして問題提起をし、その回答とも言うべき短編「ゾーイー」で見事な結末を生む伏線の数々もまた素晴らしかったです。特に「フラニー」のヒロガリと対照的に「ゾーイー」での緻密な伏線の貼り方、回収の仕方には練られた構成を感じました。もちろんキリスト教的解釈の全てを理解出来ているとも言えませんし、差し込まれる様々な賢者の言葉そのものの文脈的なものは知らないものも多く、十全たる理解があるとは言えませんが、その見せ方や賢者の言葉の数々の力強さが、説得力あります。また、テディの手紙を読むシーンから母親であるベシーとの会話に至る中での様々な伏線を貼ると同時にグラース家の歴史と関係性を描くやり方が好きです。そして1度はフラニーの説得に失敗し、シーモアとテディの部屋へと入るゾーイーの行為が良かったです。最後の何か常識が覆されるようなカタルシスも素晴らしかったと思います、汎神論を見せる懐の深さの強さがあったと思います。

サリンジャーは「キャッチャー」しか読んだことがない、という人に、オススメ致します。

勉強会に行ってきました

2011年9月27日 (火) 09:09

連休最後の日に12校会という歯科大学の中でも新設校(といっても結構古いんですが・・・)の会合の勉強会に参加してきました。日本歯科医師会、という大きな組織の会長である大久保先生の講演を聴いてきました。

東日本大震災と中医協という診療報酬をめぐる動きについてのお話しだったのですが、かなり面白かったです。

東日本大震災における歯科医療の携わったことについては、本当にびっくりするような仕事で、いくつかスライドも見たのですが、かなり大変な仕事だと思いました。地震と津波の被害は圧倒的なものでした。その中での診療行為、そこに立ち会った方々は自身も被災された地元の先生方だった(しかも自分のことを脇に置いて、です!)というお話しも、知らなかった事実です。

また中医協のお話しはいかにして歯科医療の診療報酬の環境を変えるのか?というお話しだったのですが、私も1人の歯科医療に携わる人として知っておくべきお話しでした。海外との比較もいろいろあって面白かったですが、やはり皆保険制度というのは多数の人が利益を享受できるシステムだと思います。診療報酬システムでの中医協という診療側、支払い側、公共側からの介入の複雑さ、それぞれの立場、そして歯科医師会の戦略や戦術も多少なりとも理解出来たと思います。やはり組織として成り立ちためにはもっと会員である私たちの意識を変えないといけませんし、そのためには組織の上の方々の面倒でも説明も必要だと感じました。そういう意味でも滅多に聞くことの出来ない貴重な時間だったと思います。

ひとこと追加しておきますが、皆保険制度についてですけれど、恵まれていることが当たり前になってしまうと、恵まれているという事実が忘れ去られますから、その点には注意したいですね。

やはり治療ではなく、クリーニングとメインテナンスの重要性を改めて認識しました。8020運動という、80歳になった時に、自分の歯を20本残そう、という運動があるのですが、8020を達成している方と達成できなかった方との間での非常に狭い範囲でのデータも示されましたが、有意差があったことも、面白いデータでした。もっと広く広報していく必要性あります。残念ですが、歯はあって当たり前なので、無くなって初めてその価値を感じられるのですが、その時では既に遅いですから。

「ミスティック・リバー」を見ました

2011年9月23日 (金) 09:45

クリント・イーストウッド監督         ワーナー・ブラザーズ

患者さんにオススメしていただいた(以前「瞳の奥の秘密」をオススメいただいた方です)映画です。クリント・イーストウッド監督作品は結構見ているとは思いますけれど、この作品は見逃してました。個人的好みの問題ですが、イーストウッド監督作品の評価が高い程がっかりすることが多く、逆に全然知られていない小品とされる作品は結構好きな作品が多いです。恐らく、演技演出やカメラや音楽などその他の問題ではなく、脚本が好きになれないと評価が低い傾向が強いのだと思ってます。イーストウッド本人が出てくるとどれも同じキャラクターに見えるんですよね、マッチョなハリー・キャラハン的な。そんな私が好きなイーストウッド監督作品は「センチメンタル・アドベンチャー」です。イーストウッド監督も個人的に好きな映画として挙げていますが、全然評判良くないですけれど、すごく良いロードムービーだと思います。

で、今回は監督と音楽だけなんですが、結論から言うと私は素晴らしい作品だと思いました。脚本も、撮り方、演出、そして何より役者さんがそれぞれ素晴らしい演技だったと思います。

ジミーとショーンとデイブは仲の良いボストン地区で生まれ育った3人組です。カリスマ性あるジミー、引っ張られるショーン、従順なデイブが乾きかけのコンクリートに名前を刻んでいるところを警官に咎められ、デイブだけが連れ去られます。しかし、その警官は偽物でデイブは4日間ものあいだ監禁され、それでも自力で脱出します・・・
大人になったジミー(ショーン・ペン)はコンビニエントストアーの経営者で娘ケイティ(エミー・ロッサム)も年頃の19歳、ショーン(ケヴィン・ベーコン)は刑事になったが奥さんには逃げられていて吹っ切れず、デイブ(ティム・ロビンス)は良き家庭人ですが何処か暗い肩を落とした中年となっています。が、ケイティが行方不明になり、その捜査をショーンが担当、目撃者の中のはデイブがいて・・・というのが冒頭です。

好みの問題もありましょうけれど、ショーン・ペンに合わせて創ったキャラクターなのか?と思わせるほど自然に感じました、こちらの勝手なイメージですけれど、説得力あります。また、ケヴィン・ベーコン、やり過ぎない感じに好感持ちます。そしてデイブの役は難しかったと思いますがティム・ロビンスも好きな(もちろん『ショーシャンクの空に』も素晴らしいんですが、『さよならゲーム』とアルトマンの『ザ・プレイヤー』は忘れられない!)役者さんですし、無難な演技だったと思います。キャスティングがこれだけでも見事だと思うのですが、さらにさらに、細かいところまで印象的な配役です。ショーンの相棒刑事にローレンス・『マトリックス』・フィッシュバーンが対照的で良いですし、不安定なデイブの妻にマーシャ・ゲイ・『ミスト』・ハーデンも似合いすぎですし、ジミーの娘ケイティに愛くるしいエミー・『オペラ座の怪人』・ロッサムの最後の笑顔の演技は特筆すべきほど印象的でした。確かにティム・ロビンス以外は役者さんのイメージを損なわない無難なキャスティングとも言えるでしょうけれど、それでもこれだけ堅実的で配役からある程度キャラクターを察する事ができるのは素晴らしいと思いました。

ストーリィを追う上で、ある意味ミスリードを誘う部分もあるにはあるのですが、可能性として開けていますし、見せ方としてフェアであると思います。結末にはいろいろ異論を挟む方もいらっしゃいますでしょうし、映画にエンターテイメント性だけを求める方には向かない、映画的脚本ではありますけれど、納得出来る様々な解釈や受け手の自由度があって良い作品だと感じました。

ショーン・ペン、ケヴィン・ベーコン、ティム・ロビンスに興味がある方にオススメ致します。

アテンション・プリーズ!

ここからネタバレあります、未見の方はご遠慮下さいませ。

何故デイブだったのか?が気になってしまいますが、その意味はあまりないとも思えるんですね。ただ単に家が近所ではなかったから車に乗せやすかった、あるいは犯人の好みだった、という当たりに落ち着くと思います。そういう理不尽さを描く作品であると思うんです。そして些細なキッカケがめぐって重大な結果につながってしまう。デイブは最後の最後に、嘘をついてまで助かりたかったのは、どうしてもやり直したかったからではないかと私は想像しました。デイブの監禁後の時間はずっと薄いベールに覆われた、心から楽しめない時間であったのであろうと、吸血鬼や狼男の比喩として理解しました。ちょっとした、些細なことで何かが狂っていく、あなたと私は違うけれど、あなたにもその可能性がある、という怖さだと思うのです。それにしても車に乗せられたデイブに向かって振り返る人物の不穏さと、座席に手をかける際の右手の指輪にピントが合っている(十字架を模した指輪!)怖さはかなりのものでした。

ショーンの最後もかなり意味深です、わざわざジミーに向かって指で拳銃を形取って打つしぐさの上にウインク。どうとでも取れる印象を与えます。が、個人的な解釈ではショーンはジミーの影の部分を知っている、知っていて手を出さなかったわけです。そして非常に大人な態度ではありますが処世術でさえあるとも言えます。ジミーを捕まえることはないのでしょう、ジミーがミスをしない限り。そしてレイに(自分を売った男で、殺害後ずっと!)仕送りを続けるというジミーなりの『けじめ』を知った上でのことであるのを考えるとショーンが1番凡庸な男のように、そして1番リアルに見えます、傍観者でさえありえます。職務はこなすけれど、それ以上ではないわけです。

個人的に問題なのがジミーだと思うのです。カリスマ性があり、そして自らの手を汚すことも厭わないことは良く理解出来ますし、立派でさえあるのですが、しかし、あくまで自分のルールなのです。最善を尽くし、自ら引き受ける強さまでも持ち、しかもそれを肯定さえする妻までいる。自分に復讐する手段を持ち、意思もあり、簡単には決断を下さない分別もある。しかし、それでも誤ってしまうことがあり、それさえも織り込み済みであるように見えるんです。葛藤もあるけれど、それも了解済みであるかのような。未来の予測を完全に行うことが出来ない以上、仕方がないのかも知れませんが、もし、感情に炊きつけられ、その能力を持ち、逡巡はしたが確信に近いものがあった時に、実力を、暴力を行使する誘惑に勝つのは難しいのかもしれません。ジミーの正義の頑なさとその発露に、システマティックさが表す手際の良さが、余計に恐ろしく見えました。全ての登場人物の中で1番恐ろしかったのは、私にはジミーの妻でした。

デイブを連れ去る車を見送ることを2度繰り返したという結末の後(普通の映画ならここでエンディングなんでしょうけれど)、続く現実を見せるパレードの部分の余韻が、その後の河の流れとその場面でかかる音楽の素晴らしさが良かったです。

今週の22日木曜日は、

2011年9月20日 (火) 14:01

普通に診療致します。

私は21日水曜日の7時以降は武蔵野市歯科医師会での「かかりつけ委員会」に出席致しますので、診療所にいません。ご了承くださいませ。

台風が迫っています、みなさんも足元に注意してくださいませ。

最近傘を買いました、なかなかオススメの傘です。ちょっと重たいのですが、なんと背負えるようなケース付き!昔から傘を背負えないか?と思っていたので、やっと見つけた!という感じです。

BLUNT(ブラント)というメーカーなのですが、風にも強いらしく気に入ってます。

「聖書を語る-宗教は震災後の日本を救えるか」を読みました

2011年9月17日 (土) 08:59

佐藤 優   中村 うさぎ 著             文藝春秋

気になる作家である中村 うさぎさん、鋭い切れ味あってつい読んでしまいます。もちろんうさぎさんの単著も面白いのですが、対談形式のものも非常に面白いです。その対談相手に佐藤 優さん、私は初めて読む方なんですが、この方もの凄く様々なことを知っている方ですが、この対談凄く面白かったです。

お二人ともキリスト教に子供の頃から関わりが深く、しかも同じプロテスタントであるのですが、うさぎさんはバプテスト派、佐藤さんがカルヴァン派ということで、結構乖離が大きいんですね。私も良く知らなかったんですが、プロテスタントの中での教義の違いにびっくりしました。宗教的理解が疎いんですが、プロテスタントの中でもここまで大きく理解が異なるということそのものに驚かされました。個人的にはバプテスト派の考え方にまだ親しみを感じますが部分が、『努力でなんとかしようとするのは人間の思い上がり』というくだりには非常に考えさせられます。カルヴァン派として生きていくのは幼少期の刷り込みがないと基本的には無理なのではないか?とも思ったりしますが。

またお2人のそれぞれが好む聖書のエピソードもかなり違います。政治色強い佐藤氏と、裏切るという行為に人間的なモノを透かして見るうさぎさん、かなりの隔たりがありますよね。だからこそ、対談として面白く、いちいち引っかかるうさぎさんに対して、大人で知識豊富な(いや、本当になんでこんなにいろいろなことを知っているのでしょう?凄い)佐藤氏がいちいち大人の対応をするのがまた含蓄あって良いです。

次の章では村上春樹の「1Q84」とサリンジャー作品を扱うのですが、私が「1Q84」を最後まで読んでない(BOOK2まで読みましたが、あえて3を読みたいとは思えませんでした)のと、サリンジャー作品を細かく追えてないので細かい部分で分からないことも大きいんですが、この両者の作品と同時にうさぎさんが例に出すのが「新世紀エヴァンゲリオン」でして、なんとなくこの例を出すのは分かります。ようするに母性という神話で男性は救われる、という安直で、単純で、男性主義的なものではないだろう、ということですね。モナドを使った解釈、共通に敵を見つけることでの結束(ということを最も上手く描いていると個人的に思うのは藤子・F・不二雄の「イヤなイヤなイヤな奴」だと思ってます)については確かに、です。

ただ、サリンジャーの「フラニーとゾーイー」は読んでみたいと思わせられました。なんだか凄そうな小説ですね。サリンジャーって「キャッチャー」のイメージが強すぎてそれ以外を読んでないんですが、これは期待してしまう紹介のされ方です。お二人ともが、かなり強く共感していました。早速読んでみたいと思ってます。

さらに聖書へとまた話しが戻っていくのですが、原罪についての受け取り方、うさぎさんの解釈はなかなか鋭いと思いました。詳しくは読んでいただくしかないんですが、「原罪」は「セックス」ではなく他者の目を意識した「自意識」によって生み出された「自他」であるのではないか?と。この部分だけでもこの本を読む価値があったと思います。

この本の後半半分を、やはり3.11の震災後に「宗教」は役立つのか?という大きな題に割いています。私は信仰を持ちません、神の存在を証明することは出来ない代わりに、存在を否定することも出来ません。『神さまという存在を考え出したのは人間である』という考え方を、今のところ支持していますし、個人的に1番納得出来ます。しかし、だからと言って信仰ある人とコミュニケーション出来ないということではないです。しかしそれでも、やはりキリスト教という宗教の複雑さや考え方の難しさを感じずにはいられませんでした。

佐藤氏の言う「伝染」という考え方は、以前に読んだ大澤さんと宮台さんの著書『大澤真幸THINKING「0」第8号 正義について論じます』(の感想はこちら)の中に出てくる「感染(ミメーシス)」という考え方と同じなのではないか?と思いました。しかし佐藤氏はいろいろなことを良く知ってますね。

プロテスタントを通して考えて見たい方に、オススメ致します。

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