J・D・サリンジャー著 野崎 孝、井上 謙治訳 新潮文庫
やはりグラース家の物語の続きです。一応大手の出版社から出ている作品としてはここまでですが、続きとして翻訳されている作品はあと一つ「ハプワース16 1924年」がありますけれど、結局グラース家の物語は完結しなかったわけですし、その後も発表可能である年齢であったにもかかわらず、ということを考えると、とりあえず私が追いかけるグラース家の話しとしてはここまで、という気分になりました。もう少し時間が経過して読みたくなるときがくるかも知れませんけれど。
2つの短編「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」と「シーモア序章」から成り立っているのですが、どちらも書き手としてグラース家の次兄であり大学教授兼小説家であるバディが語る物語、という構造になっています。ということはこの段階で既に小説内小説、入れ子構造になっている訳です。つまり書籍としてJ・D・サリンジャー名義になっているのであっても、手記としてバディ・グラースが書いたもの(しかも大学教授でありながらも隠遁生活を送るバディ・グラースの!)として書かれているわけです。隠遁生活というだけでなく、何かしらJ・D・サリンジャー本人を思わせるバディを通しての、シーモアへ迫る構造になっています。
最初の短編である「大工~」はまさに主人公バディなのですが、それでも真の目的はシーモアの姿を追うことであって、そういう意味でも入れ子構造です。
シーモアが結婚式を行うことを妹であるブーブーから知ったバディ。その時は軍隊に所属しており、なかなか外出許可が出なかったのですが、何とか許可をとり赴任していたジョージアからニューヨークに戻ってきます。思慮深く、その人間の本当のところ何を考えていたのか簡単には他人に理解されにくい男であり、早熟な天才兄弟たちの中でも1番影響を与え続けた、グラース家の中心人物であるシーモアの内面を探る事になる、シーモアの結婚式の物語です。
そしてもうひとつの短編「シーモア序章」はやはり次男のバディが、シーモアについてもっと深く語ろう、迫ろう、グラース家の人間であればその全ての人がシーモアを神聖視しているのに対して、それ以外の人から(結婚したミュリエルでさえも無条件にシーモアを受け入れていたのではない)全然理解されなかった、シーモアの真意を誰しもに理解できる形にしよう、とするバディの物語です。
「大工~」では、シーモアの結婚式に向かうバディの目線を通して語られる物語でありますし、バディという人物そのものの考え(あるいはバディを通しての著者本人であるJ・D・サリンジャー本人)にも迫れ、しかも物語としても面白く、流石、という出来栄えの短編小説だと思いますし、単体での読感ももちろん素晴らしいと言えます。が、それに対して「シーモア序章」の方については、もちろん個人的には面白く読めたんですが、これを単体の短編小説のひとつとして楽しめるか?と言われると難しいのではないか?と感じました。どうしてもある程度グラース家についての予備知識が(受けて側に)必要な部分が大きいと思います。なにしろ「ナイン・ストーリーズ」の最後の一遍である「テディ」は(グラース家次男の)バディが出版したという態を取ったまま話しが進みますし。その他にも、訳者が代わっているというのも関係しているのでしょうし、心境の変化もあったとは思われます。もっと深く自身の小説の中にダイヴしているように感じました。だからこそ、多少の分かり易さを犠牲にしても得られる『何か』があると感じます。しかし、たしかに短編小説のひとつとして扱われたら、バランスの悪さを感じずにはいられないでしょう。
「大工よ、屋根の梁を高く上げよ」はとても緻密な仕掛けと、はっとさせられる表現、そして見事な描写や、何より単純に「言葉」について強く意識させられる完成度高い短編小説でありますし、タイトルも素晴らしいと思います。
そして逆に「シーモア序章」は未完成の、実験的要素を含むものが持つパワフルな、付いて来られるものなら付いてきてみろ、と言うかのような魅力をもった短編小説であると感じました。
果たして、J・D・サリンジャーと、シーモアの関係とはどのようなモノであったのか?という疑問が頭をもたげてくる、そんな読後感でした。
やはり、グラース家の兄弟に、シーモアに興味のある方にオススメ致します。
アルボムッレ・スマナサーラ著 サンガ
弦間先生のブログに書かれていた本で、かなり哲学的問いかけ、しかも推薦文(帯)を評論家宮崎 哲弥氏が書いておられたので読んでみたくなりました。
「無常」というお釈迦さま(ゴータマ・シッダールタ)が悟られた最も大事な真理である、『何物も変化しないものはない』という真理からこの世界を見ようとするものです。ものすごく重要な事柄のようにも感じられますし、意外にも当たり前のようにも感じられる「無常」(無情ではない)という思想の行き着く先を分かり易く説明してくれます。しかもとてもやさいい言葉で、です。
仏教という教えは神という信仰を持つものではなく、やはりどこか規範を示すかのような『ゆるさ』があると思います。そこがキリスト教やイスラム教よりも、少し私には近しく感じる部分です、もちろん日本人だからという部分も多いとは思いますけれど。仏教は厳密に言うと宗教とは違うような気がしますし、まただからこそ気になるわけです。手塚治虫の「ブッダ」も面白く読みましたが、知識としてはその程度の、ほぼ何も知らないのと同じです。
この本はかなり簡潔な言葉を用いて、しかも至極ストレートな道筋で読者を説得してきます。そのやり方はストレートだからこその力強さがあり、かなりの衝撃を持って読める本だと思います。
端的に集約すれば『期待するな、変わらぬ自分という幻想と、欲望から自由になれ』ということであろうと感じました。これはとても難しいことです。
あまりにブッダを高く置く為に、それ以外の宗教、哲学を完全に無視し、貶める語りは、新興宗教における勧誘のやり方であり、スマートではありません。また必要以上にブッダを持ち上げるそのやり方も(ブッダの理解の早さは何者も理解できないレベルだとか、ブッダ以外には理解できないとかいう道理が入るのですが・・・)まさに信仰宗教のやり方そのものです。そういう部分は鼻につきますが、しかし言わんとしていることは分からないでもない気がしました。だからこそ、科学の恩恵を受けつつ、しかし何処かでブッダの悟りを生活の中に還元できて、しかも客観性あるバランスの良さを、読み手、受け手側の工夫が求められる本であると私は感じました。
もうひとつ気になったのは「無常」を理解することで心が綺麗になって未来の予想が当たりやすくなる、というようなまさにスピリチュアルな発言を繰り返すことの胡散臭さは拭えないと思いました。「心の綺麗さ」は推し量ることができません、発言者の恣意的な判断でしかありません。こういうスピリチュアル発言は基本的に私は認められなかったです。こういう「無常」とは先の見えない不安定なもので、世界とはそういうものだ、というスタンスを取っておきながら、自分たちに都合の良い、耳障りの良いスピリチュアルな、検証のしようがない発言を繰り返しすやり方は心象悪く感じます。
それでも欠点を補って尚素晴らしい自分の死角を見せられるかのような柔軟な発想や考え方があり、仏教の懐の深さを感じました。
日常を変えてみたい方に、仏教に無常に興味のある方にオススメ致します。
米林 宏昌監督 スタジオジブリ
今日が最後です。最後に最新作、ということで見ました。米林さん、初めて見る作品ですが、全く予備知識なしで見たので、なかなか新鮮な驚きがありました。
車の後部座席に乗るローティーンの少年、どこか病弱な、アンニュイな雰囲気漂わせています。向かう先は運転するおばあちゃんの家のようです。家に着くと、そこはかなり古いお屋敷のような洋館に広い庭があります。その庭にいる猫をかまおうとして、少年は小人を見てしまいます。その小人は・・・というのが冒頭です。
かなりファンタジック話しなんですが、それをファンタジーの世界ではなく、このリアルな現実世界で行うことに面白味があると思います。ので、この世界観をを受け入れられないとなかなか厳しい映画体験になってしまうと思います。が、逆を言えば、そこを乗り越えてしまえばかなりリアルと地続きの異次元的世界観を楽しめます。
視点をミクロにするだけで、こんなにも世界が、知っている情景が、水や、風や、動物までもが違って見えることの面白さに加えて、小人の暮らしの重要な「狩り」のような「借り」が面白いです。ちょっとしたものを借りて生活、楽しそうですね。様々な工夫も多いですし、階段やライト、粘着テープの使い方等、なかなか現代的で創意工夫されていて良かったです。
ストーリィとは関係ない、しかしその見せ方、演出はなかなか素晴らしいものがありますし、子供のころから見ている絵柄ですので、もう最初から懐かしい感覚にさせられます。しかし、しかしです、
アテンション・プリーズ
ちょっとだけ、ネタバレあります、しかも今回は結末に触れてしまいます。ので、未見の方はご遠慮くださいませ。
なのでしっかり楽しんで見たのですが、しかしストーリィはどんなんでしょうか?割合起伏の少ない、そのうえご都合主義的な展開をコメディタッチで見せるやり方と、少年の病と向き合うを抱き合わせにするのは個人的には心地よくないものがありました。必死に追いかけていた猫も急になついてしまうのが気になります、何かきっかけが欲しいと感じます。
アリエッティと少年の邂逅が混乱と、破滅と、引越しを生んだわけですが、その反面心が通じ合った瞬間があった、までは理解できるのですが、そこから少年の方が「病と向き合う」というのはいかがなものでしょうか?
もう少し小人たち、あるいはアリエッティと、少年を含む人間との関わりがあっても良かったのではないか?と思います。関係が浅いうちからこその見せ方は面白いのですが、そうするとこの結末には納得しがたいものがありました。アリエッティたちの新たな借り家は今までとはかなり暮らし難い生活になるでしょうし。
また、毎回ジブリ作品の音楽は素晴らしいものがあると思うのですが、今回はイマヒトツ乗れませんでした、何故英語の歌詞なんでしょうかね。気分的にはドラマ「ふぞろいの林檎たち」の音楽が急にサザン・オールスターズからAORに切り替わった時のような感覚でした、悪くないかもしれないけど、もうサザンに慣れてしまってるのに!というアノ感覚です。例えが古くてすいません・・・
ただ、ストーリィうんぬんよりも感覚的なものを楽しむという意味で、「ポニョ」の時の水の描写のような、寓話といいますか、童話的な楽しさを追求したのかも知れません。
映画「ミクロの決死圏」、「インナースペース」のプロットが好きな方に、もちろん『ジブリ』作品が好きな方にオススメ致します。
宮崎 駿監督 ブエナビスタ・ホームエンターテイメント
また続きます。
「崖の上のポニョ」はちょっと物足りなかった(完全に子供向けですし)ので、「天空の城 ラピュタ」を見ました。やはり、映画として完成されていると思いますし、ストーリィもキャラクターも音楽も良いですし、名セリフも、敵役も素晴らしい。もちろん好みから言えば「カリオストロ」なんですが、これは大事に見たいんでたまに見る映画としてとって置きたいのです。でも「ラピュタ」もなかなかの完成度だと思います。
ある飛行船に乗る少女を狙い、海賊が襲ってきます。なんとか逃げ出そうとする少女は飛行船から落ちてしまい・・・というのが冒頭です。というか、もうご存知のかたの方が多いですよね?
ファンタジーを扱った映画は多いと思いますし、好みの問題も大きいですが、指輪物語にも負けない国産ファンタジーの傑作と言えると思います。もちろん原作の壮大さで言えば漫画版「風の谷のナウシカ」ですけれど、映画単体としては「ナウシカ」より「ラピュタ」ですよね。シータやパズー(は絶対未来少年コナンは入ってますよねぇ)、ドーラ一家といい、ムスカ大佐などキャラが立ち過ぎるくらい魅力ある人物ばかりです。
「天空の城ラピュタ」をみてしまうと、いかに「ゲド戦記」における敵役の動機や感情、手段や演出がいかに脆弱か?を考えさせられてしまいます。「天空の城ラピュタ」ではそれぞれの想いが交錯した結果(敵役にもそれぞれの事情があって、なおそれを乗り越えたからこその)を描くからこそ、それぞれの終幕と物語り全体のカタルシスがあって余韻に浸れるのだと思うのです。多少勧善懲悪的な要素は強いにしろ、ですが。しかし「ゲド戦記」はどうしてもお約束のような予定調和が強すぎると思うのです。もう少しその部分を薄めるのであるなら、キャラクターがもっと強く前に出てきても良いはずなんですが、そこも弱い感じなので、なんて偉そうですね、実際作るとしたらとても難しいと思います。
「崖の上のポニョ」はやはりもう少し対象年齢を低くしているのだと思います。なので、皮膚感覚的なものを強く全面に押し出した作品なので、おそらく、ですが、主人公たち「ソースケ」や「ポニョ」と同年齢の人たちは楽しかったと思いますが、それ以外の人が楽しかったよりもずっと、製作者側の方々が楽しかったと思います。絵を描く、それも感覚的に純粋に楽しめる(たとえば嵐の波の上をポニョが走りながら追いかけてくる場面)絵を描き、それが動く、という部分を味わえた方々の方が、ずっと面白かったのではないか?と思うのです。
宮崎 駿監督作品が好きな方に、ファンタジーがお好きな方にオススメ致します。
宮崎 駿監督 ブエナビスタ・ホームエンターテイメント
昨日の続きです。
ただ、「ゲド戦記」やはり宮崎 吾朗監督作品、そこで続けて駿作品が見たいので未見だった「崖の上のポニョ」を見ました。
海の中で実験をしているかのような不可思議な男が所有する潜水艦から『家出』した金魚のような魚の女の子が、浜辺に住む5歳の男の子「ソースケ」と出会う物語です。
もうご存知の方多いと思いますが、特にストーリィに変わった点は無いと思います。完全に子供向けの作品ですし、それでも大人の観賞に耐えうる作品だと思います。個人的には宮崎 駿監督の「まんが日本昔ばなし」だと思って見ました。波の、水の描写、物語の飛躍の大きさ、演出でも、現代の駿版「まんが日本昔ばなし」だと思います。そういう意味で初めて見るのに懐かしいです。
物語としては主人公であるソースケやポニョと同年齢の人の為の物語であり、あれこれいろいろありますけれど、それを言っても仕方ないです。しかし現実とファンタジーの混ざり具合と言いますか、リアリティの問題として(そんな、問題誰も気にして観てないでしょうけれども、またそんなこと問題にさせなくするチカラが)同様の作品である「となりのトトロ」と比べても見劣りがしますし、もう少し創り込んでも良かったのではないか?とは思います。トトロには現実と空想の境目の説得力がありましたけれど、ポニョには無い分、昔ばなし風、という形態を取るしかなかったのではないか?と。だからこその水や波の描写なのではないか?と思います。宮崎 駿作品は「水」の見せ方はとても上手いと思いますし、水を使った演出も流石(ちょっと思い出すだけでも「カリオストロ」のルパンの城への侵入部分や結末のローマ遺跡の出現など)ですし、今回も街が水の中に沈んだ後の情景は非常に効果的だったと思います。見たことの無い風景で良かったです。ただ、キャラクターとして聖なる母、という像があまりに便利に使われてしまうと、ちょっと個人的には唸ってしまいます。
ただ、全く分からなかったんですが、凄く変な科学者風の男のキャラクターはなかなか面白いですし、その声を演じていた所 ジョージさん、上手いと思いました。飄々とした狂気に駆られる男!なんかいいです。その声でよりリアリティを感じられました。このキャラクターだけでもっと面白いストーリィが出来そうですね。
小さなお子さんと一緒に映画を見る方、「まんが日本昔ばなし」が懐かしい方にオススメします。
また、明日に続きます。