J・D・サリンジャー著 野崎 孝訳 新潮文庫
あまりに「フラニーとゾーイー」が面白かったので、グラース家サーガを読んで見ることにしたので手にとりました。グラース家に関連ある話しもありますが、関係ない話もありましたが、どれも気に入りました。いや、本当にサリンジャーというと「キャッチャー」というイメージでしか無かったのですが、恐らく(と言っても、最近読んだ「フラニーとゾーイー」、「ナイン・ストーリーズ」、今読みかけの「大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア序章」くらいしか読んでないんですけれど)「キャッチャー」が異質なんであって作家として成長といいますか作風として固まったのはこのグラース家の物語からなのではないか?という感触を持ちました。
それと、サリンジャーが隠遁生活を営んでいたこと、自作の解説や作者自身の情報を極力排除して「小説だけ」で評価を受けたいという思いの強さというかメンドクサさに(個人的には舞城 王太郎をフォロワーのように感じます)、面白味を感じます。何かにこだわるという行為の突き抜けさ加減が好ましく感じますから。
最初に最も強烈な印象を残す「バナナフィッシュにうってつけの日」です。「フラニーとゾーイー」に出てくるフラニーやゾーイーのいるグラース家の長男で、兄弟たちに精神的影響を強く与えた男シーモアの最後の1日を描いています。これを読むとより、グラース家の物語を追いかけたくなります。このバナナフィッシュからあの漫画「BANANA FISH」吉田 秋生著のタイトルも取られたのでしょうか?
間接的にグラース家の三男と四男である双子のウォルトとウェーカーのうちのウォルトの死について語られている「コネティカットのひょこひょこおじさん」は、辛辣な2人の女性の会話劇です。かなり手の込んだ作品、と言う印象を受けましたし、今まで読んだ中でも最も「キャッチャー」から遠く離れた語り口でもあると思います。
よく出来た小咄のような「笑い男」も、短編小説としての上手さの中にも、短い短編の中に入れ子の構造を作ることで醸成される空気のようなものが出来上がっていて素晴らしかったです。この作品はとても完成度が高く、映画にもできそうな感じがしました。なんか「ニューヨーカー」が好きな、あるいは「エスクァイア」(日本版は廃刊になってしまいましたね・・・)に載ってたような雰囲気そのままです。懐かしい名前を出してしまいますけれど、ジェイ・マキナニーの「ブライトライツ・ビックシティー」の中にでも出てきそうな小噺です。
「小船のほとりで」にはグラース家の長女ブーブーとその子供ライオネルが出てくるのですが、この小品のきり方もあり大抵に言えば良くあるスタイルなのかもしれませんけれど、上手いと思いますし、深い余韻に浸らせてくれます。でもこの余韻の与え方のオリジナルな手法、という気がします。もっと前の方でもいらっしゃるのでしょうか?そういう意味でもエドガー・アラン・ポーはいつか読まなければと思ってます。
また「愛らしき口もと目は緑」の電話を使った会話劇、「対エスキモー戦争の前夜」の学生同士のやり取りも、非常に瑞々しいのにそれだけでない洗練された形を感じさせます。やはり技術として、作風として固まった、という印象を受けますし、そのレベルは高いと思います。
しかし、個人的には、この作品集の中でも甲乙付けがたいのが終盤の3作品である「エズミに捧ぐ -愛と汚辱のうちに」と「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」と「テディ」です。
好みで言えば間違いなく「エズミに捧ぐ」が最も好きな作品でして、とある男が第二次大戦末期のイギリスで出会った少女エズミとの遭遇と顛末なんですが、もうキャラクターもイイですし、情景としても好きなもの盛りだくさんで読んでいて単純に面白かったです。その上での短編ならではの切り方、そして余韻が充分にあり、しかも多重構造になった作りになっていて素晴らしいです。
近いのが「ド・ドーミエ=スミスの青の時代」で、絵画と通信教育にまつわる物語でして、かなり固着するタイプの主人公の行動とその結末がいいです。現代にさえ通じるモチーフであり、タイトルの上手さも気に入ってます。絵画を言葉で表現しつつ、独白を用いた手法の面白さに加えてある仕掛けが絶妙のタイミングで現れますし、伏線の回収も見事です。いわゆる信用ならざる語り手モノです。
そしてグラース家の物語を読んでいる身として外せないのがこの「テディ」でして、決してグラース家の中の誰かが登場するわけではないのですが(テディ、と書かれるとグラース家の次男であるバディを連想していましたが、全く関係ない人物です、一応)、このテディがものとても強くシーモアを連想させる人物で、しかも作品として完結している部分に凄みを感じました。あくまで短編小説のひとつなんですが、この作品にかける情熱のようなものを感じました。
テディの早熟すぎる、天才だからこその不遇と言いますか影を表しながらも受け入れているリリカルな何かを十二分に感じさせますし、物語の終盤で行われる会話劇の、説明しきらない、含みを持たせた表現を交わす妙が独特の雰囲気を醸しだしています。
「フラニーとゾーイー」を読んだ方に、良質のアメリカ短編小説が好きな方に、オススメ致します。