フョードル・ドストエフスキー著 千種 堅訳 新潮文庫
たまにはロシア文学など読んでみたくなり、比較的薄い本に手を出しました。
係争中の裁判の為に避暑地へ行くこともできず、イライラが募っている独身貴族のヴェリチャーニノフは40歳。裁判の為に人に会わねばならないのですが、なかなか会ってもらえない毎日です。この不運は何かのせいではないか?とも考えていたところ、そういえば最近目にする奇妙な男がいたことを思い出します。その男は見覚えがありそうであるのに誰だか思い出せず、しかも喪章を付けているので目立つのです。今度会ったら問い詰めてみようと考えるヴェリチャーニノフは・・・というのが冒頭です。
情報量が多いうえに、どちらとも取れるような配慮に満ちた描写の上、語り手であるヴェリチャーニノフがどうにも信用置けないように感じられる多面的な作品だと思います。
タイトルの「永遠の夫」というのは、妻につき従って、全面的に服従し、そうすることでしか体面を保てない男、という意味のようです。というのは、いかようにも受け取れそうな、とても心理描写が反転する仕掛けの多い作品だからです。
ヴェリチャーニノフと相対するトルソーツキーというどちらも一癖も二癖もある人物の交流を描く作品であるだけに、このような多面的な作品に仕上がっているのだと思うのですが、ずれた笑い、滑稽な笑いを差し込みつつ、私が男だからのせいなのでしょうか、非常に哀愁を感じさせる、それでいて破天荒で破れかぶれの、しかしやはり信用の置けない人物同士のやりとりの数々。立場が様々に変わり、お互いがどうにも関係性を固定できないのではありますが、どちらかと言えばヴェリチャーニノフこそ「グレート・ギャツビー」における語り手ニック・キャラウェイにあたる人物だとは思いますので、多少は信用を置いていくことになると思います。
果たして、永遠の夫たるトルソーツキーの処世術は、ヴェリチャーニノフの独身貴族の処世術に何かしらの楔を撃つことができたのでしょうか?友情ではない関係性の妙を味わう事が出来ます。
ラストに明かされるある事実を知りえた上での行動であったトルソーツキーの含み、そして二人の邂逅というエピローグの描き、単純にどちらがどうとは言えない非常に深い余韻を残すのですが、以前に読んだ「アンナ・カレーニナ」(トルストイ著 の感想はこちら)の時に知ったロシア時代における『結婚』の離婚をほぼ認めないシステムの上での話しと考えると、何かヴェリチャーニノフにも釈然としないものがありまして、徒然と考え込んでしまう読後感を味わえました。
男性性について考えてみたい方にオススメ致します。