佐藤 優 中村 うさぎ 著 文藝春秋
前著である「聖書を語る」(の感想はこちら)の続編です。
今度は創世記、使徒言行録、黙示録を読んでいきます。そのどちらも私は読んだことが無いですし、知識も又聞きの知識なのでほぼ全編知らない話しを読んだことになると思います。佐藤さんと中村さんはそれぞれ何度も読まれているようですが、読み手によっても評価が異なるのが面白かったです。
中でも気になった話題は、やはり聖書や創世記の記述の中に存在するある種の矛盾に対する考え方です。例えば、アダムとイブを創造された、と言いながら、次の章ではアダムの肋骨からエバが造られている矛盾です。以前に読んだ「聖書の考古学 遺跡が語る史実」長谷川 修一著(の感想はこちら)の考え方とも少し違う佐藤さんの意見は、納得は出来ないけれど、恐らくそういうった経緯というか信じる心があるんだと思います、でも、佐藤さんが繰り返し述べられる「不合理ゆえに我信ず」というのは含蓄の深い言葉であるとは思います。
もし、不合理だからこそ、神の摂理が働いた結果である、という事実を受け止めるならば科学的な反復性のある『事実』は必要なくなってしまいます。しかし、宗教から科学は生まれたわけで(その辺の事を考えると森 毅著「魔術から数学へ」の感想はこちらを思い出さずにはいられません)、結局この伝家の宝刀のような言葉は使いどころを誤ると非常に危険な思考停止を招く危険があるにも関わらず、確かに「魔術」的な魅力があり、使っている人と使われる人のタイミングが合うと人生を変えられるかのような威力がある事も分かりますので、判断が難しいです。個人的には中村さんがこの言葉を受けて言う「詭弁」という態度で臨みたいですが、だからと言って時と場合によっては・・・くらいのニュアンスの余地も残しておきたいです。
閑話休題
その他、リリスという別の女性の存在(そこに絡めてイザナギやイザナミの話しが出てくるのが面白いのです)、また蛇というやはり神が造りし存在がエバを陥れるという事の意味を考える「悪魔」とは何か?もスリリングな思考実験のようでいて、ヨーロッパの思想史も齧れてしまうトリビアルな楽しみがあります。まさか「悪魔」から「善の欠如」を経て「ヴィトゲンシュタイン」や「言語学」の話しに至るとは思いませんでした。
また、「熟慮の複数」という考え方を知れた事も良かったですし、「カインとアベル」や「ノアの方舟」の話しを再認識出来たのも良かったです。かなり強引で身勝手な話しのように感じていたのですが、原典を当たれる能力のある(ヘブライ語が読める)方の話しはなかなか説得力があります、無論、もっと古典的な言語で書かれているものもあるのでしょうけれど。
父と子の話しである創世記の中でもわが子を捧げる事を命じて、ある意味試す、という神の存在、そして「わたしは嫉妬する神である」という記述も凄いです。つい私は神というものを超越的で公平的な存在と考えてしまいますが、それはどちらかというと間違っているのかな?とも思ったりしました。私は今のところ無神論者ですし、どちらかと言えば神が人間を造ったというよりは、人間が理不尽を乗り越える為に「神」という概念を作り出した、と考えているのです。が、キリスト教(その他の宗教も、もちろん)が存在したからこそ合理的な化学が生まれたり、という歴史の流れがあるわけで、いろいろ考えさせられます。
宗教や歴史について興味のある方にオススメ致します。