フレデリック・ワイズマン監督 シネマヴェーラ渋谷
尊敬する小説家金井美恵子いわく「私にお金があったら、ワイズマンに出資してたくさん映画を撮らせるのに」とまで言っているので昔から興味あって、いくつかの作品を見ていますが、とにかく観難い上映なんです。作品があまりDVDがなっていない上、劇場でもなかなかかかりません。観たことがあるのは僅かに「アメリカン・バレエ・シアターの世界」、「DV-ドメスティック・バイオレンス」、「動物園」、「パリ・オペラ座のすべて」(ドキュメンタリーとしてもバレエを扱った映画としても傑作)くらいです。いつか「肉」、「法と秩序」、「病院」、「高校」、「臨死」とか観たいです。
ワイズマン作品はナレーションがありませんし、BGMもありません、説明もないですし、とにかく事実というか見たままのすべてが映っていて、非常にソリッドな作品と言えると思います。日本人だともう想田和弘さん(まぁ想田さんが踏襲しているのですけど)なわけです。
御年85歳、今も現役(あ、ちょっと調べてみたらイーストウッド監督と同じ年なんで、ホドロフスキー監督も!)、そんな監督の長編デビュー作です。
なかなか見れる作品じゃありませんし、興味のある方が読んでいただけたら嬉しいです。とにかくショッキングな映画です。以下ネタバレを含む表現をします、ご了承ください。
冒頭、舞台の上に8人の男が2列に並んで三角帽子を被りながら手を不自然に拍子に合わせ、バタつかせる様を映し出します。何かの慰安、もしくはパーティなのでしょう。男たちの踊る後ろの壁に「Titicut Follies」と書いてある ように 見えます。音楽は楽しい曲ですし、歌も皆がうたってはいます、が、そこにはとて不穏な空気が流れています。どうしようもなく「いびつ」で「演じさせられている」感が充満しているのです。歌い手の男たちの声は揃わず、視線もバラバラで、隣の男の真似をすれば良い、と思っている様が伝わってきます。誰も楽しそうな曲なのに楽しそうに歌っていないのです。両手に30㎝くらいの棒を持ち、その棒の先にはお情け程度のボンボン(チアリーディングに使われるソレ)がついていますが、華やかさを演出するものであるのに、とても定まらない感情を呼び起こします。曲が終わるとスーツに身を包み、少々大柄ではすまない身体を持った、非常に陽気で顔が自信に満ち溢れ、しかしどこか目の笑っていない男が現れ、客席に向かって(カメラは客席側から動かないで撮っています、ズームはします)、「少々準備が必要なので、私がその間に小噺をしよう、私だって小噺くらいするんだぞ」と話だし、面白くもない話しをしゃべりだすのですが、その様が『虚栄心』と額に書いてあるように感じさせます、しかし誰も何もしない、観客の笑い声も普通に聞こえますし、どこか、何かが、変なのですが、それが何処と正確に指せないがために変な時間が経過していく、誰もが1度は経験したことがある奇妙な、そんな時間を思い出させます。
またある場面では、囚人の集団がてんでバラバラに行動している様を映しているのですが、ずっと陰謀論(アメリカは戦争に巻き込まれるだの、ある事ない事を言い立ててはその答えを自分で言う、最後には自分をキリストだとも言う)をしゃべり続ける男、目の焦点の定まらない男、様々な男が映っているが、誰もカメラを気にしている様子が伺えない。目線がカメラの方に向かないし、避けている素振りも見せない。何かが変なのです。
2人の話し合いは平行線を辿るのですが、この平行線があまりに平行線過ぎて、同じ話題を会話にしているように見えないのです。あくまで精神科医は囚人をオカシイと思い込み、囚人は自分の正常さを訴えようとするのですが、まるでカフカの小説のような不条理感と恐ろしさを感じるのです。
映画の終盤、審問のような場が設けられ、先の囚人、精神科医、施設職員、施設長等が集められ、囚人を取り囲むように座りながら、囚人に話しかけます。囚人は熱く自分が正常である事を訴え続け、その様が熱く見える事は理解した上での事だとまで言い続けるのです。そして、この施設に居る事が自分にとって良くないのだと、訴えるのですが、判断する側はあくまで囚人を「パラノイアだ」、「典型的なパラノイア症状だ」と言い続け、結局囚人は元に戻されるのです。
映画が終わると、字幕で「この映画は1967年に合衆国裁判所の判断により上映を禁止され、上映の許可が下りたのは1991年であり、以下の文章を付け加える事で、初めて上映の許可が出た」
「この映画の撮影の後マサチューセッツ州立ブリッジウォーター矯正院はシステムと環境の改善を行った」
という文章が出て暗転。
本当に最後までショッキングで事実だけを絶えず目の前に映し出す監督です。こういう作品見ると、ホラー作品が観られなくなるという欠点はあると思います、正直ホラーより現実の方が何倍も恐ろしいですから・・・ありきたりな意見ですが、幽霊、宇宙人、妖怪、殺人鬼、超常現象なんかより生身の人間の方がずっと恐ろしいです。きっと映画を見るまで、この看守の人たちだって自分がどれほど逸脱した状況に置かれているかを理解出来てなかったと思います、看守の人たちが観たのかどうかは別としても。
そういえばワイズマンは監督になる前は弁護士なんですよ。そういう意味でも凄い。
ドキュメンタリー作品に興味のある方にオススメ致します。
先週、細々と続けている吹奏楽の、本当に小さな発表の場がありました。
今回は道化師という曲を演奏するのに、ソプラノサックスが必要だったので、今回はソプラノにも挑戦しましたが、本当に難しい楽器です。写真の左側がソプラノサックスで、右側がアルトサックスです。
メンバーの方々ともかなり仲良くなってきて、良い感じで演奏に臨めました。まぁ演奏そのものはもう少しレベルを上げなければいけないのですが、楽しい、という演奏者の感覚は伝わったのではないか?という手ごたえがあります。手ごたえなんて感じたのは初めての事です。メンバーの方々と何かを作っていく過程も楽しかったです、もう少し時間があればなぁ。
もう少し頑張りたいです。
アレキサンダー・ペイン監督 20世紀フォックス
マイルスのネガティブ思考はかなりのモノですが、ネガティブ思考って多分痛い目にあったからこそ、なのだと思いますし、防御反応なんでしょうけれど、それにしても殻に閉じこもり過ぎて面白いです(そして幾分身につまされます)。アメリカ人としてもあまりいないタイプに感じますけど、いいです。
そこへ友人ジャックの能天気さとの対比が面白いのです。
ジョセフ・ゴードン=レヴィット監督 角川フィルム
ついに、初監督作品です。劇場に観に行かなければ行けなかったと昨年1番後悔している作品。ジョセフ・ゴードン=レヴィットが出演しているとそれだけである程度満足できてしまう程の役者さんではありますが(もちろん個人の感想です、すべての鑑賞者の印象を確約するものではありません・・・)、この予告でびっくりですが、内容は見て頂かないと分からないとは思いますが、非常に深い作品に仕上がっていると思います。決して巨匠になるタイプの役者/監督ではありませんし、間違ってもイーストウッドやベン・アフレックとは違うタイプではありますが、このまま監督業だけにはなってほしくない役者ジョセフ・ゴードン=レヴィットが観たいです。
イタリア系のアメリカ人ジョン(ジョセフ・ゴードン=レヴィット)は家族と信仰を重んじる男。しかしただの家族と信仰を重要視するだけでなく、家、車、そしてガールハントを趣味としています。そんなジョンは友人たちから敬意を表しドン・ジョン(多分プレイボーイの代名詞ドン・ファンの事だと思います)と呼ばれています。毎日プレイボーイとして暮らすジョンはある日セクシーな美女(スカーレット・ヨハンソン)を見つけ・・・というのが冒頭です。
非常に生々しい話しですし、まぁ誰にでも経験(?)のする、男性あるある話しなんですが、そこを我慢できるなら女性に向けた映画と言えなくもない作品ですし、下品なだけで終わらせないのがジョセフ・ゴードン=レヴィットです、流石です。
用意周到な男性向け布教作品とも言えるかも。
またキリスト教カトリックの懺悔という行為が生み出したモノが何だったのか?についても考えさせられます。私は正直、この懺悔というシステムは既にテクノロジーによって駆逐されてしまったと感じました。
個人的には体育館の通路を歩く一連の描写に、演出として、監督としての何かを感じるのですが、やはり役者として年齢を重ねて欲しいですね。
出演している役者さんは大変豪華で、ジョセフ・ゴードン=レヴィット、スカーレット・ヨハンソン、ジュリアン・ムーア、チョイ役ですがアン・ハサウェイも出てきます。ストーリィも、いわゆるこの映画の予告編から予想される地平を一定水準超えた作品だと思います。好みの問題もありますけれど。
ただ、映画として綺麗な終わりですが、この作品の数年後、同じような問題を抱えないとも限らないな、とは感じましたが、綺麗な結末です。
ジョセフ・ゴードン=レヴィットとスカーレット・ヨハンソンが好きな方にオススメ致します。