阿部 謹也 著 講談社現代新書
やはり師匠のオススメだったのと、山本七平著「空気の研究」、河合隼雄著「母性社会日本の病理」と繋がる話しだったので興味があり、手に取りました。
世間という事象に対して研究されている人が居る事も知らなかったのですが、この本は1995年に発行されていまして、割合最近じゃないか!と驚いた次第です。ま、今から25年も前なんですけれど、山本七平著「空気の研究」は1977年、河合隼雄著「母性社会日本の病理」が1976年と比べると、本当に最近という感じがします。
世界、社会という単語と、世間の違いを感じる事は今までもありましたが、この本ほど詳しく考えた事はありませんでしたし、実際には私も世間の中に生きているわけです。つまり世間の掟が個人に優先している、と感じる事は多々あります。自分に責任や非が無かったとしても、世間を騒がせた事をお詫びしたい、というセリフを何度聞いているか?と思うと、2020年の現在でさえ、繰り返されています。それをオカシイと思うと同時に、世間の掟によって守られてもいるわけです、暗黙の了解の上に。
カントの「啓蒙とは何か」を例に挙げて論じている、この非言語系の知について、著者の阿部さんの論旨は大変わかりやすく、そして腑に落ちます。そう、我々は、個人の責任を負っているのではなく、我々が所属する世間の責任を負っているにすぎず、世間に生かされている、とさえ言えるという結論は、かなりショッキングでもあります。
その後、日本における世間の成り立ちを見ていく過程で、大変面白かったのは、世間から離れようとする人物は隠者になるしか道が無く、そういう意味でこの本で扱っている、吉田兼好という人物には、大変興味が湧きました。古文を全く得意としなかったので、特に日本の古典文学については何も知らないに等しい私としては、大変驚きました。かなり好きになれそうな人物です。
また、鎌倉時代辺りの裁判というか審判における神判、いわゆる刑事事件の被疑者が身の潔白を証明するのに起請文を書いて奉納し、その後一定期間の間に、鼻血を出したり、鼠に衣服をかじられたり、病気になったり、食事をむせたりしなければ、嫌疑を払拭できなかったという事実も、大変に驚きました。なおかつ、盟神探湯(くかたち)と呼ばれる、神に誓って熱湯のなかにある小石を拾う者の手は火傷しない、邪悪な者の手は火傷する、という判断にもびっくりします。しかし、世間の掟として、この行為が行われていた、とすると、大変に恐ろしい事だと思います。
また、夏目漱石の個人主義、永井荷風の気質としての厭世、そして、その間を生きたような金子光晴の個人主義には、まさに共感としか言いようのない感覚があります。特に永井荷風は、大変偏屈で、しかもお金があったからこそ出来た非常識人としての矜持やふるまいに、憧憬さえ感じます。断腸亭日乗を読んだ時も思いましたが、個人としての、その生き方には尊敬すら感じます。
個人という主体が存在するのか?という事を、考えた事がある日本人の方に、オススメ致します。