アリス・ウー監督 Netflix
tbsラジオのアト6で紹介されていたので見ました。
アメリカの田舎町。レポートの代筆でお金を稼ぐ以外に学生との繋がりが少ない中国系アメリカ人女性のエリ―に、アメフト部の補欠である比較的ダメ男子マンスキーが、学校イチの美人アスターへの恋文の代筆を頼まれる事になり・・・というのが冒頭です。
ああ、私は恋愛モノは比較的どうでも良くて、映画冒頭からいろいろ差し込まれる、哲学や倫理、処世術的な有名人の名言を差し込むっていうのがたまらなく好きです。メタ構造になっていくし、ミスリードを誘うにしても、そしてどんな有名な名言だとしても、ある側面でしかない、という部分も含めて、それでもなお、言葉にする、という覚悟があるように感じさせる、というのが好きなのだと自己分析するんですが、イイです。
古い映画の引用、有名な映画の名セリフを多用するのも結構好きですし、そのやり取りが、お互いにだけ分かる、というのが、アガりますね。特に高校生でイシグロ・カズオの本を読んでいる、というのはかなりイイです。私が高校生の時で言ったら誰に相当するのでしょうか?少なくとも私は読めてなかったですね。
ネタバレは避けますが、そうか、こういうのが新しい学園恋愛モノなんですね。
愛とは完全性に対する欲望と追及である プラトン
そもそも生きてるだけで結構メンドクサイと私は思ってます!そして片割れだ、と自分が思っていても、相手にとってはそうではない、という事の方が、圧倒的に、多い。
その上、片割れ同士だと感じた2人であっても、慣れ、新鮮味がなくなり、こんなはずじゃなかった、になるのが人間だぞ・・・という事を言い出すのが老害という事なんでしょうし、何事も勢いが重要だという事も理解出来ますけれど、それなら、仕方ない、ダメになる過程に厳しさを、ちゃんと味わって貰いたいですね。
愛とは完全性に対する欲望と追及である、と思い込もうとする人の徒労である。 私
アテンション7・プリーズ!
ここからはネタバレを含むので、未見の方はご遠慮ください。
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ネタバレありだと、個人的には、エリーがアスターの事が好き、というのは、友情なのか?愛情なのか?はたまたそういった1つに絞れるものでもないんじゃないか?とも思ったわけです。
それはマンスキーにも言える。
アスターの事が好きなのは愛情だと思い込んでいるだけで、性的に好き、という部分はあるにしろ、それ以外に何も知らないし、知っていく過程を見ていても、まぁ確かにカズオ・イシグロが高校生に読みやすいか?は置いておくとしても、好きな相手が興味あるモノを知りたい、自分も理解したい、と思うのが普通なのでは?と私は思うので、マンスキーくんも、実のところアスターという外見を消費したい、という感じに見えます。
高校生はそんなもの、なのかも知れません、リビドーに支配される生き物としての時期ですしね~
この物語で1番成長したのは、やはりアスター。
自分の道を選んで歩きだしたわけで、この点が良かった。
あと、忘れちゃいけないのがトリッグの能天気。
でも、この能天気さが、眩しさも含んでいる、比較的おバカを、そのままに出来るのも良かった。
あと、いくら何でもパントキック失敗からのリカバリーTDは、ちょっとどうかと思うぞ。それだったらSEなわけだから、ロングパスでイイ描写だと思う・・・しかし、みんなへたくそですね、アメフト・・・
あと、エリーのお父さんが、すっごく、ジョン・ローンに似てて良かった。 そして、マンスキーのダメ感感じさせるキャスティングが素晴らしいし、見ようによってはかっこよく見える瞬間があるのも良かった、役者さんってスゴイですねぇ。
溝口 健二監督 大映
私にとって多分、初の溝口健二監督作品鑑賞です。
琵琶湖近くにある村で農民でありながら陶芸で儲けを考える源十郎(森雅之)、その妻宮木(田中絹代)と暮らしています。源十郎の妹を妻にする藤兵衛(小沢榮)は農民でありながら、武士に憧れていて、身分制度を超えたいと考えています。そんな村にも戦国の世の波が押し寄せて来て・・・というのが冒頭です。
恐らく民話や伝承を基に編纂されている原作の雨月物語を現代(公開時の1953年当時、と言う意味です)の人々に伝わるように作られていると思います。2020年の現在から考えると、なかなかに厳しい世界です。
モノクロですけれど、異常に心に残ります。日の光の素晴らしさ、屋内の蔵さ、ろうそくの炎の温かみなど、モノクロでなかったらここまで際立たなかったであろう印象があります、当時はカラーフィルムが無かったとしても、です。
上手いというよりも完成度の高さを、感じます。構図が凄く心に残る作品。
個人的には宮木、この田中絹代がすさまじい。この実在感が恐ろしい・・・この女優さんはどこかで観てると思うのですが、もう少し追いかけてみたいです。
なるほど名監督ですね。
エンターテイメントではありませんが、名作を見ておきたい方に、オススメ致します。
かげはら 史帆 柏書房
tbsラジオのアト6で紹介されていたので手に取りましたが、興奮する内容で、とても面白かったです!!
ベートーベンの何の捏造の話しなのか?と問われる方が多いと思いますが、それを置いておいて、とても近い話しが、ミロシュ・フォアマン監督作品、映画「アマデウス」におけるウォルフガング・アマデウス・モーツアルトとアントニオ・サリエリの話し、と考えて頂ければよいと思います。
つまり、大音楽家であるルードヴィッヒ・ヴァン・ベートヴェンと、その秘書であったベートヴェン伝記作家のアントン・フェーリックス・シンドラーの関係性を描く、歴史ミステリーです。
私はベートヴェン、と聞けばやはり交響曲第9番が思い浮かびますし、あの天然パーマのような風貌も、思い出されます。大作曲家であり、耳が聞こえなくとも作曲を続ける努力型の秀才、という認識があります。これに対してモーツアルトは、もっと天才性の高い、感性とかセンスとかの持ち主であり、だからこその型破りで、同時代では理解されない先見性を持ち合わせていたと感じます。だから、映画「アマデウス」は持たざる者と持つ者の対比としても、そして、その天才性を理解出来るのが、サリエリだけ、と言う部分に悲劇的な部分があり、面白いと思うのです。
この本では、もう少しこの2者関係が複雑です。
ベートーヴェンはもちろん素晴らしい作曲家ではありますが、その人間性が果たしてどうだったのか?そしてその秘書(というか何でも屋というか、無給の秘書、と呼ばれているそうです)シンドラーの目を通した評伝、という形を採っての関係性の話しなのです。つまりプロデュースの話し、ですね。
ベートヴェンの最晩年の秘書であり、年齢もベートヴェンの25歳下のシンドラーから見たベートヴェン像と実際のベートヴェンとの乖離の話しだと思っていただけたら間違いないと思います。
歴史ミステリーとも取れる話しですが、大事で面白いと感じたのは、動機です。タイトルに捏造と明記されていますので、その点は間違いなくシンドラーに非がある訳です。が、何故シンドラーは捏造を行ったのか?が肝になります。
ここで大変面白い、というか偶然、だと思いますが、ベートーヴェンの耳が悪かった、という事が重要になってくるのです。
ベートヴェンは耳が悪く、音楽さえ聞こえなかった、という事は会話は筆記で行われていたわけです。が、後天性の聾者は、筆記で返す必要がありません、喋れますから。ですので、ベートーヴェンが実際に筆記に使っていたノートは、ベートヴェンが筆記した部分は1つも無くて、ベートヴェンと会話したい人の筆記だけが残るわけです。ベートヴェンが何を話したのか?というファクトを証明する事には全くならないが、誰がベートヴェンと何を話したいと思ったのか?だけが記載されているのがこのノートです。そして、それは音楽に関連する事ばかりではなく、日常会話を含めて残されていて、およそ400冊あった、と言うのです。
この概要を聞いただけで、大変興味を惹かれました。
ベートヴェンは交響曲第5番「運命」はドアをノックする音だ、とは言ってない可能性の話し、です。読んだ人のベートヴェン像が更新される事間違いないですし、私は一気に読んでしまいました。
映画「アマデウス」が好きな方に、オススメ致します。
これ、絶対「映画」にすべきです!タイトルは「ルードヴィッヒ」でもいいですし「シンドラーのルードヴィッヒ」でもいい!というか、ミロシュ・フォアマンは故人となってしまったのですが、ちゃんとした人に映画化して欲しいです!!
スパイク・リー監督 ユニバーサル映画
Netflixに上がっていたので、多分30年ぶりくらいに見返しました。
とんでもなく、忘れて、都合の良い感じで、頭で話しを組み替えていた事に気付かされる、驚愕です。
ブルックリンのピザ屋。そこでデリバリーとして働くネイティブ・アフリカンであるムーキー(スパイク・リー)はピザ屋一家の経営者イタリア系のサルに使われる立場。向かいにはコリアン系が経営するストアがあるが、まごう事無き黒人街で・・・というのが冒頭です。
凄く哀しいです。なんか、もっと明るくある種のハッピー感があると思ってました、というかそういう風に記憶が改ざんされてました・・・もっとムーキーってある種のright thingを行う人物だったんじゃなかったっけ?とか都合よく思い込んでいたわけです。
全然今のアメリカでも怒っている話しです、そういう意味で人類の進歩には、とても時間がかかる、という事だと思います。テクノロジーの進化の早さと比べると、人間の意識の変革の遅さ、というか刷り込みの強さ、そして都合の良い解釈や、都合の良くルール道徳倫理モラルを凌駕してしまう感情のコントロールの難しさ、という事だと思います。
この時点で、昨年見たブラッククランズマンの、というかスパイク・リーの映画のスタイルは出来上がっていて、そして、ずっと画面越しに、私に訴えかけています、
「これでいいのか?」
「いい事ってなんだと思う?」
そう訴えかけられ続けていたし、その後もずっと続いていると思うのです。
でも、ここ日本はある意味平和で、パトレイバー2映画版の荒川のセリフでもありましたが、『偽りの平和を生きているとついつい忘れてしまう』という事だと思います、それにここ日本でも差別やレイシズムはおこってます。私だって何かのレイシストにならないように注意をしなければ、と思っていても、気づかないところで何かを誰かを差別しているのかも、と思うと怖くなります、差別は無意識にも行われているからです。
時々スパイク・リーの映画で頭を殴って貰わないといけないと思いました。
あ、そう言えば、サミュエル・ジャクソンも、ずっとおんなじ事言ってんですね・・・
差別という事を、差別されている側だとどう感じるのか?に興味がある人にオススメ致します。
宮野 真生子 磯野 真穂 著 晶文社
とにかく長くなってしまいました・・・なので結論を先に書いておきます、それ以外は読まなくて良い文章です。ですが、私は凄く馬鹿なので、何をどう感じたのか?を文章にしてみないと考えがまとまりません。その過程は、誰にも見せなくてもイイものですが、後で自分で振り返った時に、知るために、また人目に触れる場所に残す、という意味で、身綺麗にしておく意味も含まれています。
名著です、いつか死んでしまうすべての人に読んで意味のある本だと感じました。
中動態、中腰力、ハイデガー、代用医療、必然と偶然、九鬼周造と和辻哲郎、に興味がある方なら、是非。
結論は以上です、以下は蛇足です。
ですが、私は物事を簡単にする事に抵抗があります、簡単にする事でそぎ落とされてしまう中に重要な事がある、と思っています。だから、結果がでるその過程も重要だと思うのと、振り返って自分がどう感じていたのか?を振り返れるようにするために。
この本を知ったきっかけは、凄く個人的には不思議です。この本の著者というか往復書簡のお2人が知り合った顛末に似ている、と読み終わった後で気づかされます。
同業の組合のような歯科医師会で濃密な関係になった辰野先生に紹介して頂いた若手のホープ横山先生、その横山先生に誘われて入会させていただいた「いただきますの会」で知り合った同じ歯科医の鈴木先生、その鈴木先生に誘われて「いただきますの会」でも猫の話題で盛り上がった柴崎さんと向かったとあるライブで知り合った足立先生、その足立先生が紹介されていた本であったので、手に取ったわけです。凄い偶然とも言えますし、普通のおつきあいの結果とも言えますけれど、私には、とても縁を感じます。
つまり、時間的経過としてはそれほどの時間が経過しているわけでもないのに(「いただきますの会」に入会してから僅か2年、直接の紹介者足立先生に至っては僅か6か月!!)、濃密な刺激を受けています。その点が、この本のお2人の関係と似ていると思ったわけです。
著者は、この往復書簡のエースで哲学者・宮野真生子さんと、同じく往復書簡の伴走者で人類学者・磯野真穂さんなのですが、お2人が知り合ってたった5カ月で往復書簡が始まるのです。話題は本当に多岐にわたりますけれど、主に、医療と生死に関わる話しです。
往復書簡のエースである宮野さんは哲学者、そしてがん患者であるのです。より死というものを身近に感じている人です。そもそも哲学を学ぶ人は死に近いと思いますし。そして伴走者の磯野さんは文化人類学者なのですが、大変包容力のある方でして、言葉のプロと言えます。
どちらも言葉を使うプロとしての意識が高く、お互いに相手を知ろう、深めよう、という意気込みが大変に熱く、この2人の言葉による化学変化、精神的煌き、が収められている本です。
タイトルになっている「急に具合が悪くなる」というのは、哲学者でエース宮野さんが実際に主治医から言われた言葉です。その為に、出席しようとしていた仕事を止めるかどうか悩んだ事を、伴走者で人類学者の磯野さんに相談した事で知る事になります。お読みいただくしかないのですが、かなり切迫した状況です。
がん患者さんにも様々なケースがあろうかと思いますが、宮野さんはかなり重篤な状況にあるのですが、このエース宮野さんの、覚悟、言葉でこの状況でも思索するその姿勢に、大変畏敬の念を覚えます。ハイデガーの言う「死はたしかにやってくる。しかし今ではないのだ」からすると、かなり切迫しているにも関わらず、なのにです。ここに大変考えさせられるのです。
私も弱いただの1人に人間として、考えの浅い人間として、いつかやってくるこの状況に、備えていないと、その場の圧力に流されて不本意な結果になるのではないか?と危惧しているからです。そもそも臨機応変が苦手な上に、取り返しのつかない選択になりやすいと思うからです。その準備と備えの為の知識として、この本がどれほど有用であるかが分かります。
医療は人を助ける仕事ですが、この合理に対して、様々な問題が山積していますけれど、その様々な問題を、哲学的に解き明かす事に繋がっていきます。
医療は西洋医学として発展しています。ですから、とても合理的なモノだと思います。だからこそ、インフォームドコンセント、説明と合意が必要な訳で、その選択に、患者さんも関わります。何故なら当たり前ですが、患者さんに無断で、この方法が最も良い、という医療者の独断を許す事に抵抗があるからだと思いますし、自己決定、の一環だからです。
しかし、この自己決定、が本当に自己決定なのか?という事を詳しく考察したのが、國分功一郎著「中動態の世界」だったわけです。その本では、受動、もしくは能動、という二項対立ではない、3つめの中動態という古い言葉についての考察でしたが、「急に具合が悪くなる」では、実際の医療者との会話、確率論の話し、弱い〈運命論〉と強い〈運命論〉の話し、という具体例の話しになっていきます。
運命、という既に決められている、という考え方をどう捉えるのか?についても非常に意見の分かれるモノではありますけれど、こういう場合は厳密に定義が知りたくなりWikipediaによると『人間の遺志をこえて、人間に幸福や不幸を与える力のこと。あるいは、そうした力によってやってくる幸福や不幸、それの巡り合わせのこと』と書いてあります。だいたい決まっている、という事ですが、巡り合わせのこと、となると、偶然性を含んでいるのかも知れません。
例えば、この薬を飲む事で○%の人が症状は治まりますが、こういう副作用が出る確率が○%です、という医療の現場では割合よく言われる確率論の事です。
リスクと可能性の話し、例えば、薬Aを使用すると80%の確率で症状が抑えられますが、腎機能が低下する確率が10%あります。とする場合、仮に症状が治まらずに腎機能が低下する結果に陥ったとしても、合理的判断の結果ではありますが、しかし、腎機能が低下する20%の実際の該当者は簡単に納得できないのではないか?という論点や、医者に向かって「あなたの伴侶や子供であれば、何を選択しますか?」という相手を自分の地平に降ろす行為をどう考えるのか?と言った医療者(サービス提供者)と患者(サービス需給者)の関係の話しも、凄く身につまされます。
また、かなり衝撃的ですが(私にとって)『「いつ死んでも悔いが無いように」という言葉には欺瞞を感じる、死という未来が確実だからと言ってその未来からだけ今を照らすやり方は、そのつど変化する可能性を見落とし、未来をまるっと見る事の大切さを忘れてしまうためではないか?』という部分の説得力です。私はネガティブな人間ですので、基本、その遠からず等しく全員に訪れる地点から、今をみて考えてしまいます。このやり方が自分には合っていると思うし、そういうのが私である、とも思いますけれど、それでも、この言葉には衝撃を受けました。メメントモリとか一期一会を感じてその時出来る最善を選択し続ける事を最上と考えているからです。ですが、こういう考え方もあるのだ、と知る事が衝撃的だった、という事です。
ここから、確実性、必然性、などの確率論に話しになり、それが〈弱い〉〈強い〉運命論の話しになっていきます。
特に現代医学が、確率論の話しに至る部分、かもしれない未来と、ありえた未来の話し、とても量子力学的(でも、なんだか私はまだ量子力学に納得出来ていませんが)です。
医療者として、エビデンスに基づく、インフォームドコンセント、いや、この言葉が横文字が多すぎてダメで、科学的検証に基づいた説明と納得の上での同意を求められる現代医学では、一昔前のテレビドラマ(で見かけるわけですから、どれくらい前のモノなのでしょうね)では確実に観た事がある、往診してくれる先生(あの黒くて大きな鞄!)、その先生の裁量の幅の大きさと、比例する先生への信仰にも近い信頼、という構図と比べれば、より洗練された、と言えます。が、しかし、洗練されたことにより、失われた『何か』が存在するのも事実だと感じます。それが医療者だけでない人柄を含む人間としての信頼感、という事なのだと思いますが、細分化され専門性の高くなった分、医療レベルの上がった現在では、当然難しくなります。
それでも、この本でも示されている解決策である、「正しい情報に基づく、患者さんの意思を尊重した支援」というのが、今の解決策だと思います。テクノロジーの進化、進化を止める事は出来ませんし、最も辛い事は、進化がどのように進むのか?誰にも分らないという事だと思います。もちろん善意で始まってもいます。
また、選ぶ事の大変さ。決めるの疲れる、というような状況に陥った時こそ、〈強い〉運命論として、患者より権威的に強い者が選択する事に依存する、という指摘も、大変重いですね。
医療人類学なる分野がある事を知ったのも、この本でしたし、その中でアーサー・クライマンという先生の言う3つのセクターの話しも、考えさせられました。人が病気にかかると関わる3つのセクターとは、1民間セクター、患者を取り巻く家族友人知人、2専門職セクター、国家的権威ある組織が付与する資格保持者、3民俗セクター、独自の理論をもつ医療行為を行う人々、というカテゴライズです。
私はあまり民俗セクターを信用していません。もちろん治る人もいると思いますし、専門セクターで治らなかった人が民俗セクターで治る例も多く存在すると思います。が、逆の例も多く見られる点、そして自浄作用が無い点(ホメオパシーでの事故や疑似科学との親和性等)が問題と思います。そして再現性が無い事や、施術者が変われば出来ないという事も大きな問題だと考えます。ただし、そこにすがりたいという人がいるのも事実ですし、現代医学が全てを救えるわけでもありません。縋りたい人が縋れる世界は、良い世界だと思います、取捨選択の自由、そして自己決定に於いてであれば、です。しかし、この本でも疑問視されている、自己決定とは果たして可能であるのか?というのがポイントだと思います。
端的に言えば、そもそも生きている事が不条理なわけで、仏教ではありませんが、欲を持つ事がそもそも期待する事で、失望を招くとも思っています。そして次は無いかも、と思って生活しているつもりです、多分まだ真剣みが足りないとは思いますが。
もちろん、その事で、宮野さんの言うまるっとした未来を信じる、という事は出来ません。ごくごく稀に訪れる好意と好意の交換や、信じられる人との信頼から起こる熱源でさえ、時と共に変化するものです、その時はもちろん失礼のないように振る舞いますけれど。
自己決定がどのような過程を経て、成り立ちえるのか?はたまた、自己決定を左右する事象とは何か?を突き詰める事は必要であると思います。しかし、1人の、能力の少ない人間として、私はそれらを受け入れるしかないと思うのでです。現段階での自分の総てを投じて(そこにはこれまでの経験や蓄積を含みます)、その上で、最後は引き受ける覚悟を持つことでしか解決できないと思うのです。これはあくまで現時点での到達点で、しかも今後変わっていくと思いますが、かれこれ20年くらい、結局この考えの根本は変わらないところを見ると、コレが私の限界であり、処世術なのだ、とも感じる事があります。
つまり精一杯生きるために、生きる事そのものに執着しない、という事しかないと思うのです。
運命という言葉には、人間の自由意思を低いものとみなしてしまう部分があると指摘したのは銀河英雄伝説のヤン・ウェンリーでしたが、この言葉は、私にとっての真理であると共に、プロテスタントのカルヴァン派の言う、神のノートにはすべてが記載されている(だから最善を尽くせ)、と同じ意味で全力を尽くす事に異存はありません。
それでも、小林秀雄が言う、自己嫌悪は自己憐憫の一種である、という言葉も理解した上で、比較対象を繰り返ししつつ、やはり自分が好きになれないし、自分であるのは私しかいない、という事でその自己決定に責任を持ちつつ、事故の欲求を満たし甘やかせる事の甘美性を享受するのも私であり、私の自己決定なんですよね。
支離滅裂な文章も多いですが、この雑多な感じこそ、この本で感じた事だし、多分今の私の限界なので、このまま残しておこうと思います。
本当に考えさせられ、考え続ける事を教わった本です、多くの人が読むに値する名著だと思いました。