クリスティーナ・チョー監督 アメイジングD・C
2020年見逃し後追い作品 その5
予告を見て、手に取りました。かなりの衝撃作。これは誰かと話してみたくなる作品です。特に女性の感想を聞いてみたくなります。というのも、この作品のモチーフは『嘘』もしくは『承認』だと思うので。もしかすると『先回りした期待に応えるための共感』とでも言いましょうか・・・
現代のアメリカの田舎町。バスルームで介護を求める女と、介護する女ナンシー(アンドレア・ライズボロー)。部屋は汚れていて、生活保護の書類申請をしているナンシーと、その受け答えが気に入らない介護される女には緊張関係があり・・・というのが冒頭です。
ネタバレは無しの感想です。あくまで一個人である私の感想であって、製作者は違った意図があったとしても、受け手には自由に解釈が開かれているモノだと思います。作り終わるまでは監督の所有物ですけれど、公開されてからは観客のモノであると思います。
私は、嘘をつく事は良くないと教わって育ちました、当然よくない事と認識していますし、ダメだからなのではなく、信用に値しなくなるだけでなく傷つくからだと言えます。しかし嘘も方便という言葉もある通り、時と場合による、という事も承知していますし、当然使い分けています。また、それを相手がどう受け取るか?という問題に対してはほぼ無力(もちろん正確さを担保しようとする努力はしますが)である、とも思っています。
日常的には相手の望む態度をくみ取り、その尺度に合わせ、あるいはその尺度を鑑みて、より良い(もしくは交渉事であるなら受け入れてもらいやすいレベルに合わせて)態度を取ろうとするのは、人が自然に行っている行為だと思っています。
相手の事を思ってや関係性を円滑にする為に行っている、所謂『共感』に基づく心の流れとも似てるのではないか?とも思うのです。多分こちらの行為は「寄り添う」という言葉で表現される事が多いような気がします。
寄り添うという言葉は、私が幼少期の40年前と違い、とても頻繁に聞く言葉になりました。これぞまさに『共感』という事だと思います。そして私は共感する事がとにかく苦手ですし、得手不得手が誰しもあると思いますが、他者から面と向かって指摘されるくらい、苦手です。
私から見ると、大変強引な分け方ですが、共感の得意な人とそうじゃない人の割合は男女差に似ている思います、統計的に調べたわけではなく、あくまで実感として、共感するチカラが強いのは女性が多いと思います。
そんな人に見てもらいたい、孤独な女性のストーリィです。私はかなり喰らってしまいました・・・
共感する事、嘘をつくという行為、さらに他者の期待に応えたいという気持ち、に敏感な人に、オススメ致します。ここまで書いてなんか、これ違和感ある、と思って思いだしたのが「テイク・ディス・ワルツ」(の感想は こちら )の予告編の、違和感と同じなんですけれど、まだうまく言葉に出来ない・・・
アテンション・プリーズ!
ここから先はあくまで鑑賞された方に読んでいただきたいです。
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この女優さんは、地獄のマンディで観た事があったんですけれど、その時も、正常な範囲に留まらないくらい感受性の強い人間、に見えたのですが、今作もその感じが非常に強く放たれています。そういう人にしか見えないんです。私の感覚ですと、エキセントリックな女性、という風に感じます。男性でもエキセントリックな人を見かける事は極極たまに見かけますけれど、決して脆さは感じさせないと思うのです。ですが、エキセントリックな女性には共通する事の多い事柄としての繊細さを、メランコリックな何かを感じます。
この女優さんアンドレラ・ライズボローさんの瞳の大きさと、内向性を疑わせる挙動と、エキセントリックな言動、このアンビバレントな感じが、何を考えているのか理解出来ない、感覚がありますし、だからこそ、ネットでの繋がり相手に『sick』と罵られています。 確かに嘘をついているし、承認欲求の為とは言え、DPRKに入国なんてデマまでやってますし、当然合成写真を作ってもいるわけです。ネットの繋がりだけの相手には偽名で嘘の妊娠を詐称していますし擬態もしています。このある一定のラインを超えてしまっている感は、序盤からずっと示され続けています。非常に危なっかしい人に見える。
はっきり、失踪から30年後の予想画像が自分に似ているからと言って、その家族に連絡を取る、というのは明らかに常軌を逸しています。異常と言えるラインを越えた存在に見えます。 失踪家族(ブシェミがイイ!)との間にも、おずおずと入り込み、自分の承認欲求を求め、演じていくわけですが、ここでも父親からの猜疑心、とは言えこれも妻を気遣うモノであるにも拘らず、母親にこっそり打ち明けてみたりして、その場の雰囲気に流されているようにも、また、虚言癖を繰り返しているようにも、見えます。
私は虚言癖であっても、共感ベースの信頼を勝ち取り意味のある人間になりたい欲求が事実を捻じ曲げたのだとしても、そのどちらでなくても、構わないと感じました。
それは成長を、大変苦いが、成長を遂げるからなんです。 その後、実際には恐らく、遺伝子レベルでの判定結果は関係が無かった事が示唆されます。その上で、妻と救命活動という不測の事態を経た事で(その直前まで、ツリーハウスの残骸を見た事から、まだ嘘を重ねている!)、妻は事実よりも、疑似家族としての実在の絆、まだ繋がり始めたばかりで、しかも嘘から始まった関係であっても、その絆を擁護する、まさに保護者としての母親の行為を受けた事で、初めて自らの嘘を、告白するつもりになったのでしょう。 ナンシーと実母の関係は、ナンシーが望むものでは無かった関係性だったのでしょう、誰かの特別な何かになりたかったのでしょう、それをコミュニケーション能力の低さや卑屈さから出来なかったからこその鎧のように、虚言癖に走ったのか、悪意さえあったのか?は分かりませんが、しかし大人としての一歩を踏み出したナンシーの姿は、ポール(猫)と同じくらい美しかったように思います。
疑似家族の新たな形でもありえた映画で、かなり見応えありました。