エド・パーキンス監督 Netflix
ラジオ番組であまり知られていない映画の特集の中で紹介されていたので観ましたが、衝撃的な関係性、のドキュメンタリー映画でした・・・
漫画家吉野朔実のモチーフに何度も出てくる双子(ぱっと思いついたのですが、確か村上春樹の「1973年のピンボール」も双子の話しだったな)の話しです。双子ってすごく憧れのある存在だと思います。何かしらの神秘性や同時存在性の揺らぎを感じさせてくれます。でも、当たり前ですが、それぞれ違う人、環境と言うか時間の1回性、その時その場にいる事でしか得られない経験の多様性があるわけです。でも存在しない仮の自分の双子の存在を考えてみると、凄く不思議な気分になります。
1980年代のイギリスで当時18歳の双子片割れであるアレックスは交通事故に遭い意識不明の重体になってしまいます・・・目覚めたアレックスは、隣りにいるマーカスが双子の片割れである事は何故か思いだせるのですが、その他のいっさいの記憶がありません・・・自分が誰なのか?目の前で泣き崩れている女性が母親だという認識すらなく、日常生活にまで支障をきたす中で、マーカスを頼りに生活を再建するアレックスなのですが・・・と言うのが冒頭です。
人間の脳の機能が失われると、個性とかアイデンティティが失われる事と同義だと感じます。私の連続性を担保しているのは、非常に不完全な私の脳の不鮮明な記憶でしかなく、その記憶が失われてしまえば、自分がなんなのか?という哲学的疑問の中に置き去りにされる事に繋がると思うのです。
もし、何らかのアクシデントによって記憶が失われてしまい、そして自分に双子の兄弟が居たとして、その双子の話しを受け入れる以外に現実を知る事が出来なければ、いやそもそもこの状況になった誰しもが、双子に頼ると思うのです。
しかし事はそう単純ではなく、双子が置かれている状況そのものが非常に特殊だった場合、果たして真実を告げる事が、善き事なのか?という葛藤に、双子の片割れは悩むのです。
ちょっと寄り道しますけれど、私はその方の顔には、ある種その人が生きてきた証がある程度、出る、と思っています。もちろん偏見です。ですが個人的に誰とも共有していないある種の経験則のようなものがあります。オカルトと言われればそれまでですが、しかし、説明は出来ないけれど経験則として、人物の顔にある種の傾向を感じますし、自分と関りが無いと何とも言えませんけれど、関りがあるのであれば、何となく納得できる傾向を感じる事が出来ます。これは、報道もそうですけれど、そうみえる写真(まぁ報道とは言え、容疑者の写真に見栄えが良いモノをわざわざ選ばない、と言う意味です)を用いていますし、印象操作していると思います。そうつまり感じ取れると報道する側も思っているし、印象操作をしようと思っているんだと思います。
そういうその人の顔の証みたいなものが、恐ろしい事に、このドキュメンタリー映画の中で、より強く感じるのです。
それは、記憶喪失した人と、一卵性双生児の、記憶を保った人物の、重みが、顔に出ていると感じるのです。
記憶喪失のアレックスは記憶を取り戻したいという意欲溢れる、ある種の若ささえ感じるのですが、ある秘密を抱えて生きているマーカスの、同じ一卵性双生児の面影はあるが、死線を潜り抜けてきた戦士のような深みを感じるのです。これは私の偏見なんだと思いますけれど、正直、年齢さえ違って見えるんです・・・
それほどの何かを抱えて生きているマーカスと、知りたいアレックス、この2人の葛藤を描いたドキュメンタリー映画です。
双子に興味のある方にオススメ致します。