逢坂冬馬著 早川書房
知人にオススメして頂きました。早川書房が主催する文学賞で、広義のミステリ、となっています。当然、ミステリを予想して読んだのですが、うん、これは広義のミステリ、であって個人的な意味でのミステリとは違うんじゃないかな、と思った次第。それと、初回性(個人的な造語です、個人が初めて体験する事、誰にでもあるでもその人にとっての初体験と言う意味)という事について考えさせられました。
1942年のソビエト連邦にある僻村に住む18歳の少女セラフィマの目で語られる第2次世界大戦の対ドイツ戦の話しです。
第2次世界大戦では女性の兵士が存在したのはソビエト連邦のみであった、という史実(訓練された兵士と言う意味だと思います)を基に描かれた当然フィクションではありますが、やはり知らない事実がいろいろあって面白かったです。これがデビュー作という事で、著者はかなり若い方のようです。また、女性兵士という事で、とても現代的な描かれ方をしていますし、ジェンダーにも配慮がなされていて、これも現代的。
そして何より、ロシアのウクライナ侵攻という『戦争』を目の当たりにしている2022年を予見したかのような(発売はウクライナ侵攻前の2021年1月25日)形になっているのが、最も特徴的かと思います。
で、本屋さん大賞というタイトルも獲得していますし、とても売れている。
文体もイイですしなにより読みやすい、というのが特徴だと思います。そして大変良く調べられていると思います、参考文献をいちいち記載されているのも個人的には好印象です。
でも、でもなんです・・・
なんか、いろいろ、既に観た事があるストーリィ展開で、正直なんか既視感があります。登場してくるその時に、あ、この人はきっと最後に和解するんであろうな、とか、俺の屍を越えて行け的な立ち位置のキャラクターだな、とかがいろいろ分かってしまいますし、その通りの展開でした。決してそれが悪い事では無く、多少本を読まれる方であれば、そして齢50を超えている読者であれば、当然理解出来る感じだと思います。
つまりこちら側の感性が著しく衰えてしまった・・・という事を自覚しました。
私が中学か高校生くらいにこの本と出合っていたら、それなりに感化されていたであろう事は充分予想できます、そしてこれが初回性と言うモノだと思うのです。
憎むべき敵は実は自分の親であった、とか恋愛対象者が実の兄弟姉妹だったとか、そういう神話にさえ出てくるパターンであっても、その人にとって最初に触れた作品であれば衝撃度は大きいものの、そういうパターンをいくつも経てしまうと新鮮味がなくなり、そして予想出来てしまうようになる、という事だと思います。
でも描写はいいですし、会話も悪くない(すみません、上から目線という奴かも・・・でも個人的にそう思った、という次第です、大して本を読んでいるわけでもないのにすみません←誰に?とか考え始めてしまうけれど、作者含む書籍販売に関わった全ての人に、とも思うけれどその人がここを読むはずもないのでいらないんじゃ、とか思考はぐるぐる回りますね)です。
中学高校生の方にオススメ致します。
アテンション・プリーズ!
どうしても1つだけ、言及したいネタバレを含む部分があり、しかも作品に難癖をつける感じになってしまうので、そういう文章は読まなくても良いので、読みたい方だけに。
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個人的に気に入らないというか、なんかヤダ、と思うのが、ミハイルの扱いです・・・これ散々女性側が受けてきた事の単なる裏返しのように感じて・・・
ミハイルの扱いが軽すぎやしないか?セラフィマの決別を促す 為 だけに存在するキャラクターのように感じてしまいました、ココもう少し練れた気がします・・・
だって幼馴染で、もちろん戦場という死線を潜り抜け、昔と同じ関係にはなれないでしょうし、その意味ではよく分かる。ただ、あまりに急にミハイルの行動が真逆過ぎて、どういう人物なのか?非常に困惑。もちそん口では偉そうで行動が伴わないキャラクターである事は想像できるし、いっぱいいるでしょう。
でも、その前に邂逅して、弁明していて、その理由を論理的に説明しているんですよ・・・ここが変に感じてしまう。単純にリビドーや同志との結束の為の行動を優先するキャラクターは論理的な弁明をしないと思います。そして、だったら、友軍の前で結束する為に女性の前、皆の前であえて、行動している可能性もある。セラフィマほど戦場を潜り抜けたのであれば、理解出来ると思います。
私が考えるのであれば、邂逅部分はいらない、そして覗き込んだスコープ越しの邂逅でいいと思いますし、殺さなくていい。弁明は後から撃たれた後、ならそれでいい。そうすると、イリーナのよく分からない自己破壊欲求も無理強いしなくていいと思います。イリーナほどの人物がわざわざ自分を殺せってのなんだか興醒めします・・・
セラフィマの覚悟を魅せるというのは理解出来ますが、もし、為のキャラクター(セラフィマを主人公然と立たせる 為 だけの)と読者に思われてしまう可能性を少しでも低くするのは必要な行為だと思います。
すべてがあまりにセラフィマという主人公に収斂し過ぎると、ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督「灼熱の魂」みたいになってしまうと思うのですが、よく考えたら主人公に感情移入させる事、を目指すのであれば割合やられている手法ですし、目指してやっているのであれば、それでイイとも思います、私にだけ向けて書いているわけでもないですし。