大島渚監督 unplugged 吉祥寺アップリンク
言わずと知れた、大島渚監督の名作です。坂本さんが亡くなられた事で、4K修復版が劇場で観られる、という事で足を運びました。
初見は1980年代後半、劇場ではなく、テレビで観たと思います。でも、中学生だったので、細かな部分にどういう意味があるのか?分かって無かったと思いました、今回見返して、特に、そう感じました。これ、2020年代でも十分通じる概念を扱った作品ですよね。
1942年、日本統治下のジャワにある日本軍俘虜収容所のある事件で日本語通訳でもあり俘虜でもあるローレンス(トム・コンティ)は、軍曹ハラ(たけし)からその事件の経過を・・・というのが冒頭です。
何と言いますか、凄く何度も、繰り返されるあるテーマがあって、それが、大島渚が選んだテーマなのか、はたまた原作小説があるのですが、その中から意図的に抜き出されたモノなのか?そして、どうして大島監督が、この原作で映画化しようと思ったのか?が凄く気になりました。
まず、ダメというか、残念だった所を挙げると、活舌の悪い役者がいたり、恐らくトム・コンティさんは日本語を理解して話している訳では無いので、イントネーションというよりは文節と言いますか、区切りが、どうしても聞き取りにくく感じてしまいます。また、4K修復されたにしては、もう少し黒色を強調しても良かったのではないか?と思いました。
しかし、それ以外は、美術、ロケーション、画角、かなりお金がかかっていますし、何より、役者さんの、存在感と言いますか、もうそれだけでかなりの完成度と言える作品。正直、坂本教授も、たけしさんも、演技経験は多分ほとんどなかったんじゃないでしょうか?それをここまで整えて、荒さも残しつつ、物凄く良い塩梅になっていると、今回の4K修復版を観て感じました。
かなり稀有な作品だと思います。
今回観て、初めて理解したシーンの連続で、記憶の映画とは全く違った衝撃でした。
これは、日本文化と西洋文化の違い、さらに戦時中という極端に苛烈な状況の中で、さらに虐げられやすい上下関係、パワーバランスが著しく悪い俘虜状態の物語なのですが、原作者の実体験に基づいた小説の原作があります。つまり、イギリス人俘虜の立場を経験した人が書いた小説なんですが、その小説を基に、大島渚監督、そしてポール・マイヤーズバーグが脚本にしています。なので、かなり日本文化にも理解がある人間が脚本化していますし、原作にどこまで、同性愛的な要素があるのか?不明ですけれど、男性しか出てこない映画なので、より、その傾向が強く出ている作品と言えます。
凄く、今の視点で観る事でより一層価値を感じる作品。
ただ、事実として、古代ギリシャや当たり前ですが日本の中でも同性愛関係はかなり存在していた世界です。恐らくキリスト宗教的に排除されたんでしょうけれど。
ある意味、一人の男性が、自身では認められない文化圏の中で抑圧的に過ごしてきたのに、強烈な印象を与える人物に出会ってしまった、という話しとも言えるように作ってあります。
だから、凄く変なんですけれど、ラストには主演2名が存在しないシーンがあります。ありますけれど、確かに、このシーンが無いとこの映画は完成しなかったでしょうし、凄く変わったシーンだと思います。
坂本教授とデビッド・ボウイの恐ろしいまでの存在感。その邂逅がある一点で最高潮に達するシーン、そして、あの蛾、誰の発案なのか分かりませんけれど、強烈な印象を残しました。
この映画のデビッド・ボウイは、本当によくこの現場を耐えられたな、というくらい過酷だったと思います。それにどのシーンも異常な張り詰めた空気がリアルに感じられます。
さらに、エキストラの数、ロケーション、美術、衣装に至るまで、手間暇かけて作り上げられている作品、素晴らしかったです。
ラストカット、本当になんでなのかよく分からないし、全く説明出来ないけれど、とにかく鮮明に残る作品。
そして、当たり前ですけれど、音楽、凄まじすぎる。映画館で観れて良かった。
原作を読んでいない方にも、読んだ方にも、オススメ致します。
どうしても知りたいのが、大島渚監督は、この映画を作るにあたり、原作を何で知ったのか?そして、最初からヨノイ大尉と、セリアズの関係性に主眼を置いていたのか、です。原作何とか手に入れて、読もうと思います。
シャーロット・ウェルズ監督 ハピネット A24 吉祥寺アップリンク
映画好きの友人、そして様々な人が絶賛、いや大絶賛している作品なので、予告編も見ないで行きました。かなり解釈の開かれた、それでいて芳醇な101分。初監督作品とは驚きです。最近の初監督作品の水準が高すぎませんか?というくらい凄いです。
何度も、恐らくはビデオテープの巻き戻し、それもビデオカメラのような今では見かけなくなったテープのビデオを巻き戻し、再生を繰り返す機械音が鳴る中で、様々な場面がザッピングしたりデジタル上で混ざったりしています。今から20年くらい前でしょうか?そんな感じの中、ビデオは11歳の少女ソフィ(フランキー・コリオ)が空港と思われるところで手を振っています・・・というのが冒頭です。
この作品は、11歳の少女ソフィと、その父カラム(ポール・メスカル)がヴァカンスにトルコに行った際のビデオ撮影と、ソフィの想像、空想で成り立っている映画、と解釈しました。
実際のビデオに収まっているのは、恐らく事実。それ以外の場面は空想、妄想の可能性がある、と言えると思います。
まず日常の場面の切り取り方がとにかく上手いです。光の加減、その空気感まで、非常にリアル、そして何処か、確かに、懐かしさ、ノスタルジーを感じさせるのです。
もちろん、恐らくは1990年代後半?辺りの世界を描いているので、小物や美術がそうなのだと思いますが、ノスタルジックに感じられるのだと思います。スマートフォンなんて無い時代の話し。それだけで新鮮に感じます。
その1990年代くらいのトルコのリゾート地での、ソフィと、そしてソフィの母とは離婚した父カラムの数日間を描いています。
多分、初見ではワカラナイ仕掛けがいろいろと張り巡らされているでしょう、そしてどちらかと言えば、何度も鑑賞させる、という事ももちろん視座の中にあると思いますが、多分、いや個人的には、この映画が何だったのか?を思い出しながら思索する事を目指している作品なのでは?と感じました。その方がこの作品の、思い出す、という構造に合っていると思います。
なので、ある種の信用できない語り手、であるソフィの、それも自身も当時の父と似た境遇になった事で思い当たる、もしかして、という部分について思いを巡らせているのではないか?と感じました。
これは、父カラムをどのような状態であるのか?を考えないと、なかなか解釈が開かれ過ぎている、と取る人いらっしゃるのかも知れません。そして私も、観終わった最初はそう感じました。しかし、あれ?とかこれ?とか思い巡らせていると、何となく、こういう事なのかな?という部分が出てきた気がします。
これは解釈が様々に存在して良い作品。そう言う意味で大変面白い、誰かとまた話したくなる作品であるのは間違いないです。それもかなり緻密に積み上げられ、組み込まれ、あれ、この順番で!という驚きがあります。
あなたの11歳の頃ともう1度巡り合えるかもしれない作品。
私が11歳の時は、本当に何も思い出が無いです、特に普通の日常を過ごしていたのでしょう。本当に記憶が無い・・・
すべての11歳を過ごしたことがる、31歳以上の人に、出来れば娘さんのいるお父さんには是非のオススメです。
凄く、思い出す、行為そのものを描いた傑作。
アテンション・プリーズ!
ここからは、ネタバレを含んだ、感想というよりは、私の妄想です。映画の感想は間違い含めて、自分だけのモノ。特に今作はそれが非常に開かれている。だからこそ、私の解釈じゃなく、妄想です。
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さて、カラムはどのような状況に置かれていたのか?について、あまりやらないのですが、いろいろな人の考察を読みに行きました。 そのほとんどが、性的マイノリティ、もしくは自身の性自認に問題を抱えていたのではないか?という感じでした。確かにソフィも大人になっていると、パートナーは同性のように見える。 その解釈は全然納得出来ますし、音楽からの解釈もある種納得です。
納得なんですけれど、個人的には、映画は映画に中の情報で完結したい、と考えています。あくまで私個人の解釈の仕方が、という事です。
例えば、監督の自伝的映画、今だと「フェイブルマンズ」でスピルバーグとかでもいいんですけれど、製作者の自伝的な映画だから、この解釈は監督自身がこうなので、こうである、という考え方も良いのですけれど、あくまで映画単体の解釈でもいいんじゃないかな、と思います。映画の中だけで完結して欲しい、という私の勝手な想いこみもあると思います。
そして音楽にそこまで詳しくない、というのもあると思いますし、英語歌詞の内容が理解出来ない、というのもあります。
なので、私がこの映画から受け取ってカラムの状況は希死願望のある人、という部分までしか分からないし、あくまでぼかされていることは、ぼかしたままでも良いのではないか?と思った、という事です。
ある種のうつ傾向のある人、ネガティブな思考の持ち主、しかし、結婚して娘という子供を持った、もう少し踏み込むと、子を持ってしまった、という感覚があるんだと思います。
だから、ソフィに対してだけ、大人な、親の顔を見せる事で精一杯な状態なのではないか?と思うのです。
だからアンニュイな状況だし、もしかすると、あの海への歩き、は大人になったソフィの想像部分でもありますし、結果、裸でソフィのベッドで、寝ていて締め出している、という状況はかなり親としてアリエナイ行動なんですけれど、その状況をソフィが解釈すると、という事なのだと感じました。
だから、あくまで想像だけれど、この11歳の夏の思い出以降、恐らく、ソフィはカラムと会っていない、なんなら、あの空港での別れの直後に自ら命を絶った、という可能性が強く示唆されていると感じるのです。
風景は日常のノスタルジックなヴァカンスシーンなのに、BGMが恐ろしいほど悲しいのは、このためなんじゃないか?と感じました。だって、ビデオ映像にBGMは入ってないはず、だから、このBGMが聞こえるのは、全部、ソフィが心の編集として入れているのだと妄想しました。
理由は、分からないですし、希死願望の根っこには性自認問題があるかも知れない。けれど、それよりも、もっと強く感じたのは、この11歳の夏で永遠に会えなくなった、愛情があった、あるいは愛情以上の感情があったソフィの、何度も繰り返して考え続けている頭の思考を映画化したんじゃないかな?と思います。あくまで私の解釈、ですけれど。
そして11歳のソフィは、ある意味恋も恋愛感情も知らないけれど、恐らく、カラムに、はしかのような恋めいた感情を感じて、それをどう扱って良いのか?困ってるように見えます。
ビリヤードが上手い事で、大人っぽく扱われたソフィの感覚が、急に男女の関係性に、多分興味が湧くからこそ、ビデオではない映像で、若い男女のシーン、水中での急な接近をまじまじと観察していたのだと思います。それまでにも、そのように、大人を観察しているように感じました。
だからこそ、一緒にカラオケもしたかった。それは叶わなかったけれど、ダンスした、というのがソフィにとってかなり重要な思い出なのだと思います。それこそラストダンスなわけで。
だから、夢の中、大人になったソフィは、31歳のカラムと踊る事が出来た。個々にこの映画の救いがあると思います、31歳のあのヴァカンスを一緒に過ごした当時のカラムと、30歳くらいに見える子供を持ったソフィが、夢の中でダンスしている。
そして、だからこそあのビデオカメラは、ぐるっと回って、後で思い出せるように、金欠で故郷にも帰れないカラムが、一つは絨毯に、そしてもう一つはビデオに、今、最後の親子を取り貯めておきたかったのではないか?と感じました。きっとこの後に、世界から去っていく決心がついていたかのように。
そう言う意味で凄く切なく、そしてそれ以上に、あの時どうしていれば防げたのか?をソフィがずっと、頭の中で考えているのではないか?と、私は受け取ってしまいました。そしてとても納得できるのが、カラムの表情、そしてBGMです。
これは私が女じゃないからワカラナイけれど、このソフィは、ある意味、似ていて違うのでしょうけれど、でもそれを言葉だと淡い恋としか表記出来ないです。もちろん親に恋愛感情なんてオカシイのですけれど、ソフィは自分が娘だと理解していても、それ以上の何かしらの親愛なる感情を抱いている、ように私には見えました。
サラ・ポーリー監督 プランB ユニバーサル 吉祥寺プラザ
サラ・ポーリー監督は「テイク・ディス・ワルツ」が凄すぎて、本当に真理を鋭く突きつけるのが上手くて、大好きな監督です。その最新作に、これまた美しさ、と言う意味で凄いルーニー・マーラが出演している、という事で観に行きました。
めちゃくちゃにヘヴィーな話しです、重たい話し、性犯罪を扱っています、が出来れば目を背けずに、好き嫌いではなく、多くの人が観た方が良い作品。丁寧な作りですし、希望を描いています。
ですが、そういうのがダメな方にこそ、オススメしたくなる作品ですけれど、そういう人、価値観が固まってしまった人には向かないかも。
もし、保守的な考えの持ち主がいて、この映画を観ても、この状況を変えなくても良い、と思うなら、それは保守主義じゃなくて、封建主義なんじゃないかな?と思う次第です。何を守っていくのが良いのかを考えさせない、というのは保守主義ではない気がしますけれど、定義として少しだけ変えていくのが保守なんですけれど、何を、どれだけ、変えて良いのか?を議論で決めないといけないし、鶴見俊輔の言う1番病という奴で、この辺は難しいです。ですが、この映画をみて、この現状を善し、とするのは人間としてなかなかな人だと思います。
それと、宗教という業について、考えが巡りました。
実際の出来事に着想を得た作品(とハリウッド作品ではよく使われるフレーズで、何を、何処まで、信じて良いのやら、というのが個人的な感覚ですけれど・・・)。
2010年代の架空の国で暮らすキリスト教徒の集団、原理主義的な一派と思われ、現代文明のテクノロジーから離れて暮らすコミュニティの中で、事件が起こり、その為に村の男は1人を除いて隣町に、容疑者の釈放を願って全員で出かけています。男達が帰ってくるまでの2日の間だけ、村の女性たちはある選択をしなければならないのですが・・・というのが冒頭です。
モノクロ?と思われるほどに暗い画面です、モノクロ、もしくは徹底的に色を抑えた画面です。しかしコントラストはよりくっきりで、しかも照明は、恐らくほぼ全編に渡って自然光を取り入れていると思われます。なので、画面に集中を求める作品です、能動的になれる人に向けて作られていると思います。構造上からも。
現実にあった事件を基に映画として脚色されていますが、本当に酷い話しなので、その怒りについては同意しかありません。閉鎖された空間で、ある宗教一派の中での事件でなければ、現代の話しとはまるで思えなかったです。いわゆるアーミッシュ(原則快楽を禁じている、自給自足の生活をする人々)の中に属するメノナイトのアフリカでの事件を基にしているそうです。
閉鎖集団の中、戒律も厳しく、電気すら用いないですし、車もない生活。学ぶことすら出来ず、女性に人権はほぼ無い暮らしの中で、さらに、家畜用の鎮静剤を用いて、性犯罪を繰り返していた上に、悪魔や狂言だとして事件として日の目を浴びず、ただ、我慢し許容する、という中で、目撃者が現れ、隣り町で起訴。しかし保釈金を出せば出所させられるので、隣り町にこの集団に所属する男性の1名を除いてすべてが出払い、帰宅するまでの2日の間だけ、女性たちだけで納屋の中で話し合う過程を追った作品。もう出だしだけでかなりのヘヴィさです・・・
しかも読み書きを習わない、学習もさせない、という徹底ぶりで、その為に女性たちの話し合いに1名だけ、この宗教団体の出戻りである男オーガスト(ベン・ウィショー)が読み書きができる書記として参加しています。
基本的に選択肢は3つ、赦す、残って戦う、去る、です。そして赦すは少数派、残って戦うか、去るで投票は同数、3家族の話し合いによって、意見をまとめる事になります、この時点で既に1日経過しています・・・
残って戦う、去る、という選択肢の中で議論が続く状況を見続けるわけです。
ある種の、希望みたいなもの、有ると思います。そして男性、という違う性別への怒りも最もだと思いますし、この状況はほぼ全ての人が改善する事に同意すると思います。
ですが、それは、この閉鎖社会には生きていない外部の我々であって、内部の人の声は届きにくいし、当然知らない出来事です。ですけれど、恐らく、どの文化圏でも、それなりの数、過去にはあっただろうな、と思われます。そこも恐ろしい。
しかも、この集団は宗教の規律の中にあるのです、信者が救われるために存在する、あの、宗教の中にある。
宗派が違っても、同じ構造を持つ宗教組織の例外なくすべての関係者の意見が聞いてみたくなりました。
せめて、成人、あるいは分別、自我が育つまでは、学びの機会、人権の存在、平和な生活した上で、その後宗教組織への参加を、それ以外の選択肢を見せて、同意させるべき。
宗教というのはいったいなんなのか?という事について考えさせられました・・・
信仰がある人、あるいは無い人に、オススメ致します。
ちなみに、リチャード・ドーキンスの著作の1つのタイトルは『神は妄想である』です。私は少し言い過ぎかもしれないけれど、神が人間を作ったのではなく、人間が不条理な世界を生きる為に作ったのが神という概念なので、そろそろこういうのは卒業してもイイと思います。
アテンション・プリーズ!
ココからネタバレありの感想です、本作を未見の方はご注意下さいませ。
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酷い事件の被害者が出続けている状況、それでも改善が許されない、というのは、他者、というか女性を人間として扱わない、その事に躊躇なく判断出来る人だと思います。それ以外でこの状況を許せる思考が思い浮かばなかったです・・・
何のための宗教なのか?理解に苦しみますし、これはどの宗教でも、ヒエラルキーが発生する以上(だって、この宗派、多分プロテスタントですよ・・・教会からの、権力からの離脱を求めた宗教改革の結果出来た宗派ですよ・・・)この問題、権力を悪用する可能性、しかも組織の中から、という問題に答えなければならないと思います。
そういう輩を、完全に排除する事は出来ない、というのであれば、それに対する対策を明確にする必要があるし、義務だと思います。俗世では、当然法律があり、ある程度学ぶ機会の均等性があり、自由もある。
宗教はこれに応えられないのであれば、救済を謳うべきではないし、そろそろ人類も宗教的な欺瞞、神学という欺瞞から脱しても良いと思います。
神の代理人を名乗る輩、神の権力を背に、搾取を行った人間のいかに多い事か、とも思いますが、多分無理でしょうし、それならば、宗教法人を止めさせれば良いと思うのですが、人にはダメになる権利、愚行権も確かに存在します・・・だからせめて、自我の、価値判断が出来る年齢に成長するまでは、宗教的な儀式への参加を認めないで欲しいですね・・・出来れば宗教組織側から。これは宗教組織の問題で、改善しないのであれば、それは宗教ではない可能性が極めて高い、と言えると思います。いわゆる、カルト認定です。それは個人の問題ではなく、宗教教義の問題だとすれば、改善策にもう少し真面目に取り組むのではないか?と思います。ある意味、歴史的に権力を持った人間がダメになる例は掃いて捨てるほどありますから。
というような事をいろいろ考えています。映画の中身の重厚さ、荘厳さ、話し合いの流れ、確かに納得なんですけれど、ルーニー・マーラ扮するオーナが聡明過ぎるきらいは感じました・・・いくらなんでも女神的な存在過ぎる。学ぶ機会が失われても、聡明さは別だと、私も思いたい、思いたいけれど、ここまでの存在は、少し異質過ぎましたし、飲み込みにくさがありました・・・でも美しい。
それと、故意で行っている性暴力、家庭内暴力、その他について、恐らく加害者である男性も、学びが無い状態なんです・・・簡単に批判出来ない、と思いました。こういう2020年代日本の平和な社会から見ると、異質過ぎる、閉鎖空間の環境を整えてきておいて、その中に被害者を生む状況を許容している組織が神の名を語っているのが恐ろしいです。自分が是対的な正義の側、神の名を語る事でどれだけ暴力的になれるのか?を示す良い事例でもある。
そして、1名しか出てこない男性は明らかに責任を感じているように見えますし、オーナに愛情を覚えてもいます。このオーガストを演じているベン・ウィショーさんが大変良かったです。多分認識今までしていなかった俳優さんです。
しかし、それ以外の男性が出てこないし、もちろん加害者ですし、それも常習犯の可能性があるのですが、この人物がどのような人物であるか?が語られない、描かれない以上、教育も行われていない状態で、学びの機会さえ奪う、宗教組織で、容疑者の釈放の為にほぼすべての男性が出向いてしまう、というコミュニティに生きている人間が、どのような思考を持っているのかワカラナイです。
もちろん、どのような状況であれ、動物に使う鎮静剤を用いて昏睡時に性的暴力、しかも常習犯、宗教集団内では庇われているわけで、もうどう考えても男性が悪い。でも、その男性ですら、学習の機会は奪われていると思いますし、女性側が赦し、を行う事でサヴァイブしてきたのと同じように、声を上げようとしても出来なかった存在もいるのではないか?とも思いました。声を上げなければ同意したに等しいとは思いますけれど、そういう集団の中でまともな思考が働くのか疑問です・・・
なので、もちろん男が悪いし、処罰されるべきだし、女性の選択、それも話し合いによる選択の価値は尊い。
しかし、もっと大きな悪は、宗教組織なのでは?という疑念がさらに深まったと思います。 私は無神論という宗教を信仰していますし、論理的であるという名の神も信仰していますし、客観性という神も信仰出来る、自分の判断を手放したくはないですね。神を大上段に掲げて、その加護を求めるのも自然だとは思いますけれど。もちろんいろいろな立場の人間がいていいし、それぞれを尊重したいけれど。