芹沢駿介著 新潮社
知人にお借りしたのですが、面白い考察。でももう少し先まで踏み込める、とも思った次第。
刊行は2000年で神戸連続児童殺傷事件の驚きから論考を重ねた家族像への解析だと理解しました。
神戸の事件は1997年ですし、その事から家族、という形態の変化の話しになっています。
著者芹沢先生のお考えの基になる部分の理解が、私には少し難しく、エロスという単語を用いてもいますし、エロスの意味が著者の言う何が含まれているのかで判断が難しかったです。
エロスはどちらかと言えば、性愛の方の意味合いが強く感じますし、愛という事で言えば、個人的にはプシュケという方が近い感覚があるのですが、これはギリシャ神話の話しから考えると、という事なので、どういう意味合いで使われているのか?ちょっと不明でした。
ですが、いわゆる母性とは何なのか、それとアプリオリに、必ず存在するモノなのか?それとも、刷り込みを含む後天的な所作なのか?私には判断出来ませんし、よく分からないです。出産がもたらすイニシエーションは確かに凄い事なのかも知れないし、しかし出産さえすれば、母性が発揮できる、という事でもないような気がします。
いうまでもなく、その後長く続く育児を考えると、共同作業と昔は言えたかもしれませんが、今は違うと思いますし、かなり難しい正解のない事のように感じます。
覚悟を持ってでも難しいとは思いますけれど、そういう事ではなく、自然とそうであった時代から、1990年代辺りから変わってきたと思います。最初に私が感じたのはDINKsという考え方だったと思います。
著者の大まかな考え方は、この悲劇的な事件を、家族、という単位から、母親、そして父親というロール(役割)から考えた著作と言えると思います。様々な形があり(トルストイの名著「アンナ・カレーニナ」の冒頭の有名な家族の話しと同じように!)、時代による変化も俯瞰した上で、今後の変化や、考え方、実例を挙げた実践されている例を出しながら、結論に至るのがついていく父親、というモデルだと理解しました。
ただ、もう少し踏み込める、と言いますか、もっと社会の形、影響、そしてそれは私たち(という大きな単語も好きじゃないのですが)が選択した結果なのではないか?と思うのです。そして、ある種のポイント、もう既に変えられないポイントを過ぎた感があります。
結論から言うと、これは避けられないのではないか?と考えています。一定数、子育てが上手くいかない人は存在すると思うし、中には重大な事件を引き起こしてしまう子供を育ててしまう事になる可能性が、常に、どんな家庭でも、一定数起こりうる、というだけな気がしました。それも個別家庭の問題よりも、社会的な問題の方が大きいのではないか?と感じたという事です。
以下、私の認識している社会的な要因について。
少子化は既に既定路線ですし、世代が一回り以上(第2次ベビーブーム世代が既に生涯未婚を決める50歳に到達)しているので、よほどの事があっても変わらない。異なる世代間同居は減少し続け、単居世帯がこらからさらに増え(つまり非婚化)る事も既定路線です。これは育児環境にヘヴィーな状況にしかならない。地域や世代を超えた相互扶助があり得た育児とは真逆で、ワンオペに近いと思います。
(ただ、欧米だって同じ歩みなんですけれど、居住環境が違い過ぎるとは言え、何かしらのヒントはあると思うのですが、個人が存在しないムラ社会だと難しいのでしょうけれど・・・)
その主たる育児負担者の母親に、母性だけを頼りに常識の変わるスピードが異常に早くなった現代で、ワンオペは相当な負担だと思います。でも、この社会形態を選んだのも、社会形態を緩やかに変える可能性がある唯一の手段である政治、そして選挙に、行ったとしても、行かなかったとしても、結果が全てで、特に変わらなかった。
というような大まかな家族を取り巻く社会の状況が、大きな問題で、各家庭の事情における問題の前に、社会の問題があるように感じました。
もう少し細かく整理すると、
1960年代から続く高度成長期には、サラリーマン家庭、所謂第一次産業ではなくなり、会社が多くの男性にとって家族のような形態になり(終身雇用も相まって)、親との同居を解消していきました(地方との格差を生み出してもいる)。家庭を持つ事=大人になる事 という構図になり、同時に専業主婦という形態が一般化し、育児は母親の仕事で、稼ぎを得るのが父親の仕事、という分業が、この時代のノーマルになりました。ノーマルであり、常識だったのですが、当然ですけれど、常識だって、ノーマルだって変化していきます。この時はこれで良かったと思いますけれど、個人が考えて選んだ結果であるなら良いのですが、皆がしているから、特に考えもなく、という層が一定数、というか結構大多数だったような気がします。
親との同居の減少、これは間違いなく、個人が自由を欲したから、人によってはわがままになったから、とも言えると思いますが、とにかく、2世帯以上の同居は無くなったわけです(個人的には、ココに嫁姑問題という日本文学の一大ジャンルがあるように、現実世界にも、負のリサイクルがあるように思います 感情をコントロールできない 自分がされた嫌な事を、自分もする)。その結果、専業主婦が育児を一人で行う事になった訳です。これにニュータウンとか団地とかが重なっても、まだ希薄ながら地域社会があったのですが、東京ではそれすら、生活時間の違いや地域社会との付き合いを費用対効果で考えるようになり、それもなくなった訳です。
自らが望んで、自由や分業を手にしたことで、育児というそれまでは地域社会も関わっていたモノが無くなる過程で、ワンオペ化したわけで、これも、当然選んだ結果のように感じます。
当人たちがどのように考えていたのか?分からないですけれど。
その子供世代は、親たちの生活感や結婚観を感じながら、その後のバブルを頂点に、その後は今、だけでなく将来を考えるようになったと思いますし、賃金がどんどん下がっていく(のは少なくとも政治による部分も大きいと思うのですが)中で少子化どころか非婚化したわけで、これはいくつもの理由があると思いますけれど、分業化した育児と稼ぎの中で、稼げない人は結婚できない、となりますし、小倉千賀子著「結婚の条件」で出されていた、冷蔵庫を買う訳では無いので失敗できない、吟味に吟味を重ねる事と、ロマンティックラブの間で引き裂かれる事になりますし、ロマンティックラブを優先させれば、当然若さによる勢いが必要で、考慮する事が出いないし、若さを捨てて吟味を重ねると、引くに引けなくなります。もちろん相手である男性も同じで、しかも男性は男尊女卑に思考が固まって、それが常識化していると、何故自分が選択されないのか?を理解出来ていないとも思います。
非婚化し少子化した中でも、育児のハードルが高いのは変わらないし、男性の育児参加は増えているようで、実際のところ、自分事にまでなっていないでしょうし、当然その間の必要経費も稼がなければならないわけで、どうにもならない。男性側も昔の価値観に引っ張られていると思いますし、実際に感じます。
そういう社会の中で、子育ての中における父親の役割、学校制度や教育の指針(恐らく、自分よりも良い学校に行け、は結局子供から見ると、親の人生は失敗だったように見えるし、幸せ、幸福な家庭に自分は育っていない事を自覚させる行為に他ならないし、親のルサンチマンを晴らす道具に子供がなっているように感じさせている可能性がある)の上昇志向も相まって、どうにもならないような気がします。
という事で、社会的な背景が大きい、と感じました。もちろん家族像の変化も大きいかも知れないけれど、それは社会的な背景によるし、その中での、父性は、追従とか自由を与えるとか規範の中での安心を優先的に選びやすい、という事だけの問題じゃない感じがした、という事です。
もちろん、ついていく父親の存在価値はあると思います。でも、ついていく、の中での結果責任を負う覚悟が必要です。親には子供を育てる義務があるけれど、親も初めて親になっているので、そのメンター的なモノが、母親像としては、ある程度存在しますし、それが例え虚飾な部分があったとしてもモデルケースにはなります。
ですが、父親像に至っては皆無な気がします。モデルケースで思い出されるのって、もしかするとまだ星一徹(漫画「巨人の星」の主人公・星飛雄馬の父で、癇癪を起すとちゃぶ台をひっくり返す、暴力的で強権的な父親として描かれている)感覚なのかも知れません(是枝監督が少し手を付けている気もしますが)。
それに、ついていく先が何処なのか?ワカラナイのを手放しでついていく事の恐ろしさも感じました。学校教育が最高だとは思わないし、団体生活も個人的には嫌な思い出もたくさんあるけれども、社会で生きていく以上、恐らく経験する事は必要で、その上で、社会とあまり関りを持たない選択肢を選ぶのであればよい気がします。
でも、これだけ不登校の人が増えたのは、それなりの理由があると思いますし、学校、以外の選択肢があまりに少なすぎるとも思います。
それに不登校の中に、学校集団生活にどれだけ適応させられるか?を判断する基準が無いのも難しいし、親世代で不登校の人が増えないと、関わり方が難しい上にワカラナイとなってしまいそうです。
つまり、母親や父親や家族の中の空気の問題や関わり方の問題も、もちろんありますけれど、それ以上に家族を取り巻く社会構造の問題な気がした、という事です。
だらだらと長くなってしまいました・・・