アレクサンダー・ペイン監督 ビターズエンド キノシネマ新宿
2024年公開映画/2024年に観た映画 目標 36/100です。 現在は24/80
アレクサンダー・ペイン監督作品で、しかもポール・ジアマッティが出演で主演!と聞けば、名作「サイドウェイ」を思い浮かべずにはいられません。かなり好きなタイプの映画です。とは言え、全てのフィルモグラフィーを観ている訳では無いですし、「ファミリー・ツリー」は私にはもう一つハマらない作品でした。家族の善性、理解はできるけれど、私には家族とは業の方がずっと肌身に感じられます。遺伝子的に逃れられない、というのはある種の鎖ですし。それが地域性にまで広がる話しで、あまり感じ入る事が出来ませんでしたし、「ダウンサイズ」の主人公があまり気に入りませんし、けれどその主人公の身から出た錆的な展開は胸がすくモノがありましたが、それはまた別の話し、映画の評価とは関係ないですし。
なのであまり身構えず、期待も大きく持たなかったのが良かったのかも。それと映画の感想なんて、誤解を含めて、その人のモノで、それだけで良いとも感じています。話し合う事になれば、また変わりますけれど。また、出来るだけ他者の感想に引っ張られたくないので、当たり前ですが、基本感想にまとめてから他人の感想を見聞きしたいです。なので本作の感想もまだ、見てもいないです。ですので、間違っていても、監督の意図と違っていても、それはそういうものだと思うのです。受け手の自由がある。
1970年の12月、クリスマスシーズンに差し掛かった伝統ある全寮制のバートン高校では荷造りをして終業式を待つ生徒でごった返しています。古代史の授業を担当するポール・ハナム(ポール・ジアマッティ)は生徒の評価表を返し・・・というのが冒頭です。
これはかなり変わった、そして凄く志の高い作品。と私は感じました。
映画冒頭にはおおよそどんな映画でも製作会社、配給の名前が連なり、その会社独特の数秒から数十秒の動画が流れます。20世紀フォックスならファンファーレとロゴ、MGMだったらライオンの雄たけびとロゴ、コロンビアならたいまつを掲げる女性とロゴ、など映画を観ているといろいろ出てきて面白いですよね。
今作は、ミラマックス(となるとどうしてもハーヴィ―・ワインスタインを思い出してしまう・・・ちょっと身構えてしまいましたよ・・・)とユニバーサルなど数社の動画(この名前何というのでしょうね・・・知識が無い)が流れます。が、そのどれもが古めかしくも懐かしみがあります。もちろん1970年はまだ私は0歳なので、当時に観ている訳では無いのですが、少しは当時の映画をDVDやVHSビデオで観てはいるので、何となくわかりますし、そうでない方にも、わざわざレコードで音楽をかけているので、レコードの針の無音では無い音で分かるはずです。
1970年代の映画を、現代(2024年)の人に、新作として観て貰いたい、というのが志が高い、という事なんですけれど、詳しく説明しようとすると、どうしてもネタバレに繋がりかねないので、割愛、ネタバレありの部分で説明します。伝わりにくいのをあえて言うと、それは普遍的な価値について、です。だから志が高い。
この映画はポッドキャスト番組「コテンラジオ」を聞いている人には頷くしかない、様々な要素があり、非常にマッチング度が高い関連作品だと思います。特にポエニ戦争、ローマ史、つまりユリウス・カエサル編と、ハンニバル・バルカ編は必聴の回だと思います。だから聞いていた人にはご褒美な作品。
個人的な難点を1つだけ挙げると(細かいのはいくつかある)それは、もう1人の主役であるアンガス・タリ―を演じたドミニク・セッサの造形、です。もちろん設定として分かるんだけれど、ちょっと大人要素が強すぎる。もっと子供っぽさを残した人の方が、私はより刺さる作品になったと思います。それ以外は本当に素晴らしい作品。
音楽もとても良かった。音楽に詳しくないので、歌詞も意味が分からないけれど、ピアノの場面の選曲、良かった。そしてパイプオルガンの荘厳さも良かった。
子供時代を経験した人に、オススメします。
当たり前ですけれど、ポール・ジアマッティ出演作で今の所私の№1作品。そして私のクリスマス(個人的には異教徒の祭り、と捉えています)映画として№2の作品です。
宗教という事についても考えさせられる作品と同時に、2023年の個人的ベスト2であるポール・シュレイダー監督作品「カードカウンター」との類似点もある作品です、ええ、あれから私も手に入れて読んでますし、100分で名著の紹介本はすぐに読み終わりましたし、良かったです。
良作の1070年代の映画を観たくなる、そうさせる映画体験。やっぱり志が高い。
アテンション・プリーズ!
ここからはネタバレありの感想ですので、本作を未見の方はご遠慮くださいませ。
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長くなりそうなネタバレありの感想
まず最初に志が高い事について説明したいです。
1970年代の映画なのに、今2024年に劇場でかかって見れる、というのがどれほど難しい事か?を考えてしまったからです。
この映画の中で、主人公であるポール・ジアマッティ・ハナム先生は古代史の先生で、今を知りたければ、過去を知る事こそ必須、というポリシーの持ち主です。ボストンの古代展示室での教えには頷くしかない。そのハナム先生は1970年に教師をしている、という映画を観る事で、今2024年現在の私の所作、生き方みたいなモノまでも照射してくる言葉を投げかけてくるわけです。それって、普遍的な価値について語っているのと同じです。古代から同じような悩みを抱えて生きてきた人類に対しての普遍的な態度の話し。善き事についての話しだと感じるからです。
そして、今普通の人に、1970年代の映画を観て欲しい、と思い願ったところで、そもそも映画どころか文化的な摂取をしないで生きている人もいますし、なんなら偏屈で友人の少ない私の肌感覚からすると、何かしらの文化的な趣味趣向を生きがいや軸に生きている人に方が圧倒的マイノリティ。肌感覚でも、多く見積もっても3割くらいじゃないでしょうか・・・
そんな2024年の現代にクリスマス映画の再興を掲げて、善き事、普遍的な価値観を描く、志が高いです。まるでフランク・キャプラの「素晴らしき哉、人生」のファンタジー要素を抜いて、で同じくらい志が高い作品。
今のアメリカ大統領候補者の下品さ、会話のかみ合わなさ、うちの国の政治家の方々のわきの甘さや納税義務を怠っても逮捕どころか起訴さえされない状況、経済的な点のみで判断される価値観の薄っぺらさを、たった50数年前の出来事を描いているだけなのに、思い出させるのです。そうだった1970年代は当時でさえ古臭く見えていた宗教的な儀式や規範と言うモノがまだ存在していて、ある程度信じていられた事を。それこそもっと前の世代から観たら違うのでしょうけれど、ソクラテスの時代から言われている、今の若い人たちは・・・という嘆きはあるものの、今と比べて世界はまだ単純であったし、善き事がまだ規範足り得た時。それを映画を通して理解出来る。決して説教臭い話ではない事は観れば理解して頂けると思います。
確かに、この映画で取り残される3人は三者三様で、それぞれに世代が違い、価値観も違うのだけれど、そうとしか出来なかった人たちです。その中でも、特にポール・ジアマッティ・ハナム先生の境遇、背負わされているモノがあまりに重すぎます。メアリー・ラムの背負わされているモノも非常に重くヘヴィーなんですけれど。
生徒たちから嫌われ、教師の仲間の中でも浮いていて、自分の教え子が校長になっているが、自らの世界を築き上げているように見えるハナム先生。周囲からは浮いているし、時代錯誤で、偏屈にしか見えないのですが、そうとしか出来なかった人である事が徐々に分かってきます。
ハナム先生は、斜視という身体的な特徴に加え、多汗症、そして臭いについても身体的特性を持っています。まるでヨブ記の主人公のようです・・・それに加えて、ハーヴァード大学での卒論で盗作疑惑をかけられ、放校処分を受けているようです。映画冒頭の校長との会話でもそうですが、寄付金額が大きいからと言って、勉学の評価は別、というハナム先生の融通の無さは、ここからも納得できると思うのです。そうするしかない事を。そんなハナム先生は前校長の温情で教師になった人。当たり前ですけれど、自分の殻に閉じこもるだけではなく、他人をうらやんだり、妬んだりしてもおかしくない境遇と言えます。それでも、確かに当たりはきついし頑固で偏屈でなあるけれども、根本の部分で優しい、親切心のある、tendernessの持ち主なんです。ここにアレキサンダー・ペイン監督作品の主人公に共通するものがあると思います。
それを現代でやろうとすると、かなり難しく、それこそ前作の「ダウンサイズ」みたいにシニカルさが強くなってしまいます。でも、それが1970年代だったら、ぎりぎり生活者の視点の中にも存在していると感じられるのです、夢物語ではない現実的なリアリティがあります。
さらにここで宗教色を強く(は)出さない匙加減も非常に好ましいと感じました。だからこその、カードカウンターと同じマルクス・アウレリウス自省録が出てくるわけです。しかし、それでも、まだ宗教はその役割を終えているとは思えない事も理解出来ます。宗教によって救われる人が居るのであれば、それもまた善き事のひとつかも知れません。でも人間が不条理を納得させるために作った神という上位概念を使わなくとも、善き事を分別出来る人間の方が、ホモサピエンスとしてより良いのではないか?とは思うのです。
非常に腐った世の中で、現実はいつも不条理で、不正義がまかり通り、思うようにはならない。しかし、その事を嘆いても変わらないし、その中で苦しく孤独だとしても、自分にとって善き事を繰り返していく事を選べる3人の、家族でもない、連帯は一瞬で、それでも確かに何かが伝わり、それぞれの道を歩む人たちの一瞬の邂逅を描いた傑作。
家族でも連帯しているわけでもないが、確かに繋がった、と言える何かが残る。ラスト近くの握手しているだけの2人の、校長室のまえで手を繋ぐ2人の、何と美しき事か。
なかなか昔の作品が良作だとしても、すぐに観られるサブスクリプションサービスをいくつも抱えていても、なかなか過去作や名作を観られていない私に、過去作の偉大さを、そしてなんでも、常識だって変わってしまう現代のたった50年前の世界を思い出させてくれて、そんな世界や映画がたくさんある事を教えてくれた本作の価値は高いと感じます。
志が高い。稀有な作品。
ポール・ジアマッティ・ハナム先生の、教育者としての態度、殻に閉じこもる意味には深く納得です。殻に閉じこもり、しかし生徒に対しては毅然と教師として振る舞い、それ以外は自分の為に時間を使う、それでいいじゃないか?と思うし、そうせざるを得なかったと思う。同僚の女性とのコミュニケーション、そして何かしらの淡い予感を、きっと何度も経験したのだろうことは容易に想像できますし。そして淡かろうがなんだろうが、ショックだし、彼女は親切でtendernessなだけでそれだって立派な人。もしかするとこの映画の中で最も普遍的で立派な人なのかも知れないとも思う。そして殻に閉じこもる類似性として、村上春樹作品の主人公っぽい(閉じこもるを例えて、靴箱の中で生きて行けたら、というような主旨の文章、あったな)。そう言う意味で単純に私は村上春樹作品に批判的になれない。ただ、ずっとそこでそれだけ読んでる、というのは好きになれないのだけれど。
メアリー・ラムの境遇も悲劇性が高い・・・旦那も息子も25歳になれなかった、という事実はヘヴィー過ぎる。それでいて、決して自堕落なわけではなく、職務をこなす。ただそれだけで立派。こういう人々の事を笑ったり、だしにしたり、残念な人という態度をとる事がいかに下品であるのか?を描いてもいる。
また、もう1人の主人公であるアンガス・タリ―については、悲惨な幼少期で、親にも見放され、統合失調症の発病の危険もあり、同情を禁じ得ない。のだが、あまりにサル、そうホモサピエンスのいわゆる男性は基本幼少期から欲望に忠実であり、短絡で、疎外者を出す事でのみ結束出来る、サル山のサルと同じ腕力という暴力的な因子での順位、ヒエラルキーを欲して生きており、精神年齢は基本的に実年齢からマイナス20というのが日本社会で50年ほどサバイブしてきた私(男)の調査結果です。中には漫画で役職を題名に入れて未だに、ヒエラルキーとラッキーというか自分では何一つ努力せずになんとかなる(これも正直村上春樹っぽさがある)というサラリーマン向け漫画の主人公のように(まだ死んでないと思うけれど)80近くにってもマイナス80歳くらいしないといけない感じの生き物もいるのです。そして詳しくは理解出来ないし結局永遠の私には謎だが、ホモサピエンス女子も、全く違った意味でのダメさがあると思われるが、基本的に話が通じない、と感じるのでその辺は触らないようにしたい。
なので、タリ―は可哀そうな境遇だが、高校で再入学をしていたとしても、そして21歳にはなっていない(確か21歳から飲酒可能)としても、なんとなく自業自得感がうっすら感じる。この人の演技に良い部分があるのも事実だが、私は少々自意識過剰な匂いを感じたし、ちょっと年齢が上過ぎる・・・もう少し若さ、もしくは暗さが欲しかった、あくまで個人的な意見ですけれど。
しかし、だからこそ、この今はサルに見えるとしても、反抗的であったとしても、頭脳の回転が良かったとしても、ハナム先生よりは若い、このタリ―の為に、自分の余生を犠牲に出来るハナム先生の、苦しくとも善き事、利他の精神の発露が美しい。
なんというか、必要以上にベタベタしない、なんなら連絡先だって交換しない、この距離感が、タマラナイ。そうこの時代に携帯電話もネットもSNSも無いのだから。
黙ってやり過ごす事も必要だけれど、それだけじゃないところも良かった。レミーマルタンは好みじゃないけれど、ジンビームが呑みたくなる。グリーンブックのカティーサーみたいに。
この映画が好きな人と話してみたい。