山中遙子監督 ハピネット 新宿武蔵野館
2024年公開映画/2024年に観た映画 目標 36/100です。 現在は34/105
河合優実さん目当てで行きました。あと、凄く評判が良かったので。
山中監督作品は「21世紀の女の子」で観た 回転てん子とどりーむ母ちゃん しか観てないです。ですが、今作は初長編作品とのこと。期待はし過ぎない態度で臨みました。
結論 長い。そして、分かんなかったです。
えっと、これから色々理由とか書くと思いますけれど(あくまで私の備忘録としてですが)、正直、脚本と演出は上手くないと思います。観終わった後で予告編観ました。大変パンキッシュでキャッチーでZ世代(1990年代後半から2000年代に生まれた自我が目覚める前からネットが存在した世代 と言う定義だそうです)に共感する映画、カンヌでも観客賞を取っているそうです。
現代(2020年代)のどこか東京郊外の駅を遠景から映し出し、ある人物にズームしていくと・・・と言うのが冒頭です。
カナ(河合優実)は美容整形クリニックで働くスタッフ21歳。不動産業に就労している彼と暮らしています。が、基本的に虚無感を抱いていて、友人を慰める為に気晴らしにホストクラブに遊びにいく選択が出来る人です。そして一緒に暮らす彼には嘘をついて別の彼とも遊んでいます。道で声かけられる男性にも、それなりの態度が取れる自己主張もする女性です。
冒頭近くのシーン、カフェにて友人と対面する場面、非常に面白くなりそうな、自分たちの会話と他のテーブルいくつかの会話が聞こえてきて、私もよくやるんですけれど、盗み聞く、というよりはラジオのチューニングを合わせる感覚で聞いてしまう事ありますし、なんなら対話しつつも聞けるんですけれど、それが映画内で再現されていて、ココは凄く面白かったし、なんというか監督を職業にしている方々(数少ないけれど、お話しさせていただいた方が数名います)に共通する、現実を俯瞰している人にありがちな行動にも見えます。
ただ、何と言いますか会話が空疎。それと、2024年に聴く単語として、まぁまず無いと思います。単語の意味と語彙が強すぎるから、使いやすいけれど、ちょっと、ね。こういう部分のセンスがあまり乗れない。もっと2024年的な単語はあると思う。
演じている河合優実さんの演技スケッチとして、唯一楽しめる感覚がありました。その時々、そのシーンにおける河合優実性ともいうべき感覚があります。おそらく当て書きなんだとも思いますけれど。
男女を逆転させたら、と考えても、まぁ理解は出来るけれど、成立はする。ただキャラクターとして古い・・・でも、今まで役割としての女性性を演じられてきた人の鬱憤を晴らすのに消費して良いのでしょうか?これは彼女の劇中の言葉ですけれど「ネットで調べりゃすぐに理解できるのに」「自分で考えられないのかよ」というそのままをそのまま返したくなる瞬間が多過ぎました・・・
若い世代の生きにくさを、性別で役割を勝手に決められていた時代から、その不公平性をこれからは変える、というならば、同じ轍を踏んでどうするのだ、という気持ちになってしまうんです。もちろんやられた事をやり返す自由はある。
まぁどちらかというと自分の感情を発露させたいんだろうとは思う、公平性とかフェアネスよりも。
ナミビアの砂漠というタイトルはなんだったのか?が全然理解出来なかったのですが、どんな意味があるのか?皆目見当がつかなかったです。多分私がおじさんで感性が鈍くてミソジニーな部分を持っているからだと思います。
すっごく好意的に解釈すると、ナミビア砂漠に生息する動物を観察するように、カナ(を演じている河合優実)という動物を観察する映画、と言えなくもない。
キャスティングは凄く良かったし、納得もするんですけれど、総じて素人さんの作品に感じられました・・・
余白を勝手に良い方向に、これが分かる私はそっち側って言いたい人に評価されそう、という世界を敵に回す発言もしちゃう・・・それぐらい乗れなかった・・・
同世代の監督で言えば私は断然、首藤凛監督の新作が観たい。ずっとパンキッシュで、もっと根源的な渇望を見せてくれるから。
ネタバレなしでいえる事が少ない・・・映画作品としては全然乗れない作品だったなぁ・・・
河井優実がきになる人に、だけではオススメ出来ないのですが・・・
この先品を観た人の、それも女性の意見を聞いてみたい気もしますけれど、なんだかなぁ・・・多分私の感性が死んでるんだと思いますよ。
まぁ器が小さくミソジニー要素を抱え持つダメ人間でオジサンの感想なんで基本スルーで。
アテンション・プリーズ!
ここからはネタバレありの感想です。また、本作に対する個人的な感想ではありますが、不快な文章が多数含まれます。
そんな文章は恐らく誰にも読まれないで良い文章なので、私の備忘録として残しているだけです。
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ネタバレありで言うと、
確かに、今までの日本映画の中ではみた事がないキャラクター。そして演者の演技力で、確かにシーンごとに、成り立っている。
でも逆に言うと、脚本としてはあまりに魅力を感じなかった・・・
今までされて嫌なこと、を同じ方法、もしくは感情の発露として暴力、暴言を許していいのか?と言う気持ちになった。
あまりに、シーンで、もっと言えば相手、もしくは状況で態度が違い過ぎるし、自分に正直、と言うのであれば、それは善き事ともいえるのかもしれないけれど、世界はあなたの為に出来上がっていないし、自己中心性、なんなら幼稚性を感じさせる・・・舌打ちされて、わざわざ箸を落とされて拾え、と命じられるのが楽しい人は少ないのではないか?と思う。甘やかされている環境こそが大切で、その環境すら、他に好きな男(まぁ性別は問わないけれど)が出来たら、というか気持ちが離れたらそちらに行く事に、躊躇なくウソを交えてもいけるの、まぁすげぇとは思う。
自分に正直が素晴らしい事か?凄く考えさせられる。まぁ若さ、とは言えるかも。
確かに最初の男の過保護性は何かしらの嫌味も感じるし、結局のところ、自分のことしか考えていない訳で、路上で突っ伏して泣けるの、なかなかなナルシスティック、もしくは弱みを見せて相手に取り入る端的な手段としても、理解はするけれど、実行できる人はそうはいないんじゃないかな?
あくまで保護され、甘やかされ、生活の依存と言える状況に身を甘んじている人間が、だからと言って他の人間に走る場合に、相手(確かに風俗に行った事をわざわざ言葉にして自分の心地よさ、自分の良心の呵責に対しての『楽』を選んでいるだけ)に後ろ暗いところを 利用 して別れるのは、人間としてもどうかと思うし、その考え方を批判する私が古臭くて、契約で縛るタイプなのかもしれないが、まぁ下品であることは言えると思う。他に好きな人ができたならそれを言って別れればいいのに、そうはしなくて、自分を良く見せたいまでは言い過ぎかもしれないけれど楽な道を選びつつ、相手に対してマウントを取れる時に喜び勇んで(つまり笑みを浮かべ楽しみつつ)利用するのは、今の世代やZ世代で普通なのかもしれないけれど、どうかなとは思う。
劇場では前の男が車から突然出てきて突っ伏して泣く場面が一番声を出して笑うシーンだったが、それを笑えるなら、まぁ過去の男性優位の社会や映画でも、捨てられる女の自己陶酔的な浸る場面を笑っているのと同じで、気持ち悪いとは思う。
次の男の場合もなかなかで、カナの態度としては別に変わらないし、なんなら暴力を通しての連帯みたいなモノがあるのかも知れない。私は全然理解出来ないし、それを器が小さいと非難されたら、そうです、と答えると思う。この器が小さい問題も、正直、男女の役割分担的な論拠ではないのか?と思う気持ちもある。
基本的に男性の家族間コミュニケーション不足は、それを認識する機会(つまり親に自分の彼女なり付き合う他者を会わせる機会、家族外の人間と親しくなった事を紹介する機会)が無ければ認識出来ないくらい、そう言うモノとして刷り込まれていると思うし、ここが全くなくいられる人の事は聞いたことが無い。経験しないと認識できない事の一例だけれど、かなり大多数の人が経験しないとワカラナイ現象の一つだと思う。そして、それを、つまり招待される側は何度も経験していると思う。
起こった事をその後にどう生かすのか、どう扱われて、どう思ったか?を意見交換しないと難しいし、察しろと言われるんだろうけれど、難しいだろうと思う。そして、もちろんこの映画では、関係の持続を目指す行為は、全く、全然、写されない。多分そこを見せたいわけじゃないんだろう。
男が食べかけのカップ麺の箸を、食べもしないのに手に取って、自分の手で、落として、拾えと命じる事で何が満足されるのであろうか?????
昔から何度も形を変えて聞いてきた話を個人的にまとめた小話『モンブランとショートケーキ』を思い出す。
夜中 ギリギリお店が空いている可能性のある時間帯
女 ショートケーキ食べたくなったから買ってきて
男 (なにやら不穏な空気を感じるが、前もって回避する手段を知らない)分かった間に合うかどうかわからないけど行ってくる
男 (コンビニのスイーツではなく、ケーキ屋のケーキじゃないとこれはダメな奴だ)
1時間くらいかけて開いているケーキ屋を探してショートケーキを購入
男 遅くなってごめん、ショートケーキあったよ
女 もうショートケーキじゃなくて今はモンブランが食べたいんだよ、そんな事も察せられないのかよ鈍感!(とかその他暴言や詰り詰問が続く)
私は何度もこの手の話しを聞いてきたけれど、これなんなん???
私のワガママを聞いてくれる男に承認されたい欲求なのか?女王として崇め奉り上げられたいのか?それともマウントがとりたいのか?
私が思うに、この行動を取った後で男が考えるのは、どうしたら実害が少なく別れられるか?じゃないかと思う。めんどくさすぎる。惚れた腫れたという、頭に虫が沸いている状態であれば数回は出来るかも知れないし、虐げられたい欲求を持つホモサピエンスもいるとは思うけれど、醒めれば同じ結末に向かうし、建設的な会話が生じる余地が少なすぎる。エスパーに、超能力者になれと?それも好意を寄せる相手の事だけを考えて生きろと?富豪や遊んで暮らせるホモサピエンスならまだしも、本当にどうかと思うのですが、この映画のカナのこの時の衝動が全く理解出来ない。そして映画内でも説明がされない。
多くの女性は相手にこのような事を求めているのであろうか?永遠に持続する事がアリエナイと言っても良いほどこの理不尽な世界で?
この後、キャスティングは最高な精神科医が出てきて、中島歩さん最高過ぎる。けれど、カナは自分を病気だと考えているのであろうか?
私は、この前段階で、転んだのは自分のはずなんだけれど、腕や脚や首を痛めた間に従属させる関係を手に入れて優越感に浸る味を知ったので、病名を付けて貰って、その病名を根拠に男を従属させるキーアイテムとして使う為に知りたいのではないか?としか見えなかったです。
実際の女性の知り合いが「精神科医が付いてるし診断書も書いてくれるから会社は行かなくてもしばらく残れる」という発言を聞いたことがあります。
こういうの男女差があるのかないのか知らないけれど、それと関係なく、ホモサピエンスとして下品で器が小さいよりも姑息で卑怯とは思う。私は器が小さいミソジニーな部分がある事を認める一視聴者だけれど、イヤだな、と思う。
しかしこの映画が見せたいのはそういう事でもなく、自由に生きて欲望を肯定する生き方の提唱なのかも知れないし、もっと他の理由があるのかも知れません。
(とは言え、状況が合致する人たちがこの映画を観て詐病という手段を用いるきっかけにはなって欲しくないなぁ、その可能性は否定できないけれど)
違う精神科医?分析医?が「悪は存在しない」の時のイベント会社の女性の人!なんか雰囲気あるし、説得力あるし渋谷采郁さんのキャスティングも素晴らしい。噛んで含める説明の説得力はちょっとびっくりしたくらい良かった。
で、箱庭療法からのジャンプ。隣の英語学ぶお姉さん。
このお姉さん、凄く正しくも、理路整然としてる意味でも、何となくメンター的な人になるのかと思いきや、よく考えると都内のマンション近くの場所で焚火って?という気持ちにはなったし、結局のところ、何を言っても無駄で、その話題の先を言っても説得できない感覚から、何故か体力の消費を目指し始めた。その時の歌もなんですけれど、一瞬これはカナの脳内妄想か、ファンタジーなのかとも思いましたが、多分現実の出来事なんでしょうね。
このお姉さんと、職場で出来た後輩「タバコが吸えなきゃ辞めよかな」を発言、表明出来るのもなかなか凄い。この人は初めて見ましたがインパクトある。爪痕残したな、と言える、そして、おそらくカナと同種類の生き物。
急に予約も無く病院を訪れて一緒にご飯を食べに行く誘いをするの、私が言ってるんじゃなくカナの声で私の脳内では「ネットで調べりゃすぐに分かるのに」とか「自分で考えられないのかよ」という心の声が聞こえてきます。
といろいろいいつつも、この2番目の男とは暴力的体力消費関係が最も拮抗状態を得られる関係で、お似合いなんじゃないかな?とは思います。
恐らく、自分の関係のある腹部エコー写真を持ってくる男の不用心さも恐ろしいけれど、ダンボールを開けないで果物を腐らすずぼらとの関係はちょうどいいのかも知れないが。
揚げ足を取り、付き合って同棲しているとはいえ他者の昔の関係に、簡単に踏み込んで自分の負の感情をぶつけ、あまつさえ揶揄する女性でも男性でもホモサピエンスに、何の共感も持てない私は、器が小さくミソジニー要素を持ったダメ人間だから仕方ないと思います。そして個人的にはこの映画を褒めてるのは、そういう部分が無い立派な人だと思うし、なんなら、心の中ではそう思えていなくとも、この映画を褒める側に居る自分が好きな人なんだろうな、とは思った。
いくら何でも長すぎで、整合性というかこの映画の映画としての面白味が無さすぎる。
これから褒めてる人のレビューや感想を聞いたり見たりしますけれど、どの辺を面白がってるんでしょうね。
もしかすると心の清々しい方々の感想やレヴューを観て、私の心の器の小ささとかミソジニー加減に変化がある
わけないな。