井の頭歯科

「阿修羅のごとく」を観ました NHKオリジナル版

2025年2月10日 (月) 08:54

 

向田邦子脚本     NHK     U-NEXT
2025年公開映画/2025年に観た映画   目標52/120   4/12
私はたまたま、U-NEXTさんのマイリストを少し消化しようと思っていました。お正月の書籍の読みはじめに何を読むか?というのに高橋源一郎さんが「追憶の1989年」で谷崎潤一郎の細雪挙げていたのを思い出して、四姉妹モノだし、森田芳光監督とはあまり相性が良くないけれど観ておくか、となった訳です。ところが観終わったとたんにNetflixで是枝監督が「阿修羅のごとく」を再ドラマ化の予告が始まっていて、次いで是枝板のNetflixの「阿修羅のごとく」を観ました。
全体的にキャストはどう頑張っても古い作品の方々の方が良いですし(例外もあります)、脚本が良いのは理解しますけれど、あまり今あえて製作する意図というか、なんで?が難しいと思います。特にキャストされた方々は、良いと思ってくれる人少ないと思いますし、直接比べられてしまい、不幸な感覚があります。それに森田芳光版は映画なので、かなりコンパクトに要約されているのですが、その脚本の編集が、ちょっとびっくりするほど良かったので、これを観ればまぁいいか、と思っていました。
しかし師匠(書籍、文化関係の師匠 本当に尊敬できる)にお会いした際この話をしたら、是非NHKのオリジナル版を観た方が良いですよ、とお話ししていただき、手を出したのですが・・・
これを観てしまうと(まだ3話 第1シーズン完の所)映画版、是枝版の評価が・・・かなり下がりました・・・演出は、私からするとガハハと笑う変なおじさんのイメージでしか無かった和田勉。
まず、放送が1979年放送で昭和54年を扱っています、つまり当時の現代の話しなんです。あくまでテレビドラマとしての現代を描いているわけです。だから脚本を生かすには、もっと言うと是枝監督も森田芳光監督も、やるなら向田邦子さんにお願いして現代というかその時の話しにしないといけなかったと思います。しかし当たり前だけれど、亡くなられているので無理。だとすれば、手を出さない方が無難だったと思います。
四姉妹モノ、確かにそうですが前提として、次女である里見巻子(NHK:八千草薫 森田版:黒木瞳 是枝版:尾野真千子)が主人公で軸であり、その巻子に3人の姉妹がいるから四姉妹を描かれているように感じます。だから、これは巻子の話しなんです。もっと言えば巻子の中にいる阿修羅の話し。しかし阿修羅はどんな女の人にも存在するし、四姉妹にもそれぞれ、という話し。
ここが、全然全く違い過ぎる。
特に森田版の黒木さんの存在感の薄さ、というか軽さは大問題だと思います。そう言えばジェーン・オースティンの「高慢と偏見」でも次女が主役。そこにフォーカスしないと、その上コメディ色を強くしたら、阿修羅と関係なくなっちゃう。非常に重要なポイントだと思います。
森田版は、コメディ方向にポイントをずらしていて、もちろんだからこそ、是枝版も同様にコメディ色も入れていますし主役を四姉妹に割り振っていますから、今でも観れるし、今の観客に向けて味を、うすく、うすく、うすく、しています。だから阿修羅がなんなのかイマヒトツ感じられません、男が茶化している様にすら感じられる第1シーズン3話の幕切れに、見える。
オリジナル版は全く違います、めちゃくちゃに、シリアス。生活感を漂わせ、次女巻子から見た生活や生きていく業を描いているからこそ、阿修羅なんですよね・・・まさかここまで違うとは・・・だって脚本が同じなので、演出の、監督の、力量が分かってしまう・・・残酷。
それと、昭和って凄く汚かったんですよ、街も、電車の中とか路地も、禁煙スペースなんてものは無く、電車の中でもタバコが吸えたくらいの違いがあります。車両に灰皿があったんですよ、駅のプラットホームにも、すべからくタバコをどこでも据えるのが常識だったんです。そして衛生的にもどうなのか?今からだと考えられないくらい、汚かったわけです・・・そこが映画版も是枝版も、全く感じられなくて、凄く嘘っぽく、軽くて、まぁ今の人には向いているかも。でも昭和をある程度過ごした人なら、それは、嘘と言うモノだと思いますし、リアルじゃない。
第1話女正月で四姉妹が初めてそろうシーンに、脱ぎ捨てられた四姉妹の靴がクローズアップされる短いカットのシーンがあるのですが、どんな靴を履いているか?どう脱いで置いてあるのか?だけで、もう既に四姉妹の性格の違いや趣味趣向まで読み取れる感覚があります、上手い。もちろん後の作品の方が良い部分も無くはないけれど、圧倒的に現代性、その当時の事を描くわけで、空気感が当たり前ですけれど全然出せてない。なんとか衣装や小物を揃えたところで、使い慣れていない感覚がどうしても残る。
そして、なにより文楽を女家族で観に行く事も、現代では代わりすら見つからないでしょう。私だって生で見た事無いので、偉そうには言えないのですが、庶民の楽しみの中にまだ、東京の国立に一戸建てを構える家族の楽しみとして、文楽という選択肢があった、という描写は重いし、これ歌舞伎とはまた違った感覚ですね。
さらに、私はこれはあてがきなのでは?と思う瞬間が非常に多かったです、特に次女の巻子についてはどうしようもなく八千草薫さんの、少し控えめではあるし、三女いしだあゆみほど父性に対する幻想はないものの、こうであって欲しいという感覚は残っている既婚者。そういう部分が非常にデリケートに描かれていて、素晴らしかった。
3話で完結していて、ちゃんと「完」ってつけてる。もちろん残りも観ますけれど、本当に素晴らしかった。
あと、このテーマのトルコの行進曲を選んだの、誰!頭から離れないです、明治十勝スライスチーズのCMのセリフもリフレインされてしまう・・・
それと音楽の使い方で言うと、どうしても知らない曲がクライマックスにかかるのですが、これを一生懸命調べたら、gates of babylon という曲で、レインボーというグループのハードロックなんですけれど、ギターの人だけ知ってて、リッチー・ブラックモアでした・・・選曲のセンス!誰?
父の佐分利のコミカルを排した真剣さの上にラストの悲哀があるわけで、この辺なんかもう小津安二郎作品みたい。長女のちゃっかり感ですら、オリジナル版ではコメディになってない。三女に至ってはもっと父性幻想に飲み込まれているお嬢さんであり、ヒステリックに演じるのはちょっと違うけれど安易な着地点としては理解出来る所がまた解釈が浅い。四女なんて子供なんですよね、でも成人していて男と同棲もしているし上の姉たちへの反抗心が動機、という子供なんです。この辺も田舎っぽい人連れてきてもダメだし、かといってそつなく演じるわけでもないのが難しい。2話で風吹ジュンさんは恐らく玄関のシーンでは本当に転んでいますし、そういう部分が映し出されていて、ちょっと演出家として和田勉恐るべし。
唯一のコメディリリーフが勝又さんである宇崎竜童なんでしょうけれど、だからと言って他の皆にコメディ要素を入れたら、相対的に勝又はもっとコメディ寄りになってしまい、不器用さが重要でコンプレックスがあるのを、変な人、コミュニケーション能力の低い人、のように見えてしまう弊害の方が強いと思います。特に森田版の中村獅童さんは、監督や演出の意図を組んで演じているのでしょうけれど、ちょっと可哀想。次女の夫は緒形拳さんで、まぁそつがないのではありますが、この後代役になるらしく、その方も楽しみ。
次女巻子は結婚して専業主婦でこの時代のメインストリームに居るけれど、上の世代には既に寡婦になったモデルケースを垣間見、未婚で父性幻想の強い若さのある三女と、逆に人気があるけれど無鉄砲な女で未婚で同棲をしている四女との対比として、中心に座るべき人物。
ここに、母が存在するのが、肝だと思います。おそらく当時の女性にとって母の存在はもっと大きかったし関係性も強かったと思います。もっと言うと女性のモデルケースが主婦1つしか無かった頃の、だからこその心の中の阿修羅が存在するわけで、いろいろ納得のNHKオリジナル版の第1シーズンでした。
阿修羅のごとく を観た人すべてにオススメします。
ブログカレンダー
2025年2月
« 1月   3月 »
 1
2345678
9101112131415
16171819202122
232425262728  
アーカイブ
ブログページトップへ
地図
ケータイサイト
井の頭歯科ドクターブログ