井の頭歯科

「なぜ、脳は神を創ったのか?」を読みました

2010年8月10日 (火) 10:15

苫米地 英人著                         フォレスト2545新書

刺激的タイトルですし、カバーがまっピンク、しかも帯がまた怪しい単語が散りばめられています。自称天才の苫米地さんの本ですが、最近やたらと本が出ていて、そのどれもがとても胡散臭いタイトルです。ま、この方はきっと確信犯的にやられているのでしょうけれど。で、その手の本に興味は無いのですが、この方の考え方や対談は面白くて好きです(You Tubeですが、水道橋博士の番組に苫米地さん、宮台さん、宮崎さんが揃って出演したもの、笑えますhttp://www.youtube.com/watch?v=gOT5TCsr9Kg)。

大胆にも、神は存在しない、と言い切っています。しかも1991年に、と年まで正確に区切って。

今回はネタバレあり、です。どうか予備知識なしで読まれたい方はご遠慮下さい。また、あくまで私の読解力での解釈です。著者の意味するところと違っていたとしても著者に問題があるのではなく、読み手の汲み取り能力の低さの問題です。あらかじめご注意を。

苫米地さんは、何故宗教が存在するのか?というところから持論を進めて行きます。神という存在は完全なものである、だからこそ「いる」のか、「いない」のか。

神を見た、聞いた、指示があった、など直接的関係を持った人がいるが、それはその受け手の脳がそう感じていただけで、脳に錯覚を起こさせることが可能である以上、常に神ではなかった可能性が生じてくる、という認識論で訴えてきます。そして、信仰心こそ、不完全なる存在である自己を認識した時に希求する、完全なるものへの憧憬(や畏怖)ではないか?と。だいぶまわりくどい言い方や面白い話しも差し込まれていますが、基本的にはそういう認識だと感じました。そして、脳機能には分からないことも多いが、脳が神を感じた(話した、見た、触った、居た、等々)事が全て真実であることにはならない。そして、認知科学に大きな影響を及ぼした不確定性原理によって、この世界に完全なものは存在しない以上、神 という完全なる存在もありえない、と結論付けています。だからこそ、全ての宗教の中でアートマン(自我)さえも無である、と規定している仏教(釈迦の教え)に意味があり、なおかつ、宗教を必要としない世界になるべきであると。なぜなら 神 は死んでいるのだから。神(完全な存在)ではない人(不完全な存在)が、会ったり、話したり、感じたりという接触(脳を介しての)から、相手が神であるかないかを証明することは(不完全な人に完全なる存在=神を認識、識別することが)出来ない、ということです。そのうえ、数学というものの中でさえ不確定性原理が存在する以上、この世界に完全なるものは存在しない、ということだと思います。

私は途中の不確定性原理、という部分がどうしてもよく分からなかったので、この不確定性原理についてはもう少し調べて見たいです。ですが、やはり全てにおいて同意できるわけではないな、と感じました。人の心がどう思い、どう考えるのか?はまさに個人の自由ですし、当然神という概念を持つ人がいても良いと思います。神という存在を考え出し、言葉にし、概念として伝えてきた〈文化〉としての側面は影響が大きいと思いますし、実際のところ、数学でさえ不確定なのだとしても、それで全ての世界的成り立ちが解明されているわけではないですし。合理的であることはとても心地よいですが、少し飛躍しすぎているような印象を受けました。論理的に神が存在しえないとしても、神という概念を信じる人の心には存在していることになりますし、そういう様々な人々の総体(自我)で世界が成り立っているとするなら、神を信じる文化によって育まれた世界の成り立ち方を乗り越えるのはなかなか難しいと思います。もちろんそれと 神 が存在するかしないかは別の問題ですけれど。

証明という行為に最も向かないのが信じるという心の動きだと思います。

私は神がいても、いなくても、その証明は出来ませんし、輪廻もアートマンも存在しえるのかどうか分かりません。しかし、神という名前をつけたり考え付いたりしたのは不完全な人間であったのは事実ではないか?と思いますし、何処かに完全なる存在が私を見ている、とすることで支えられてきた(いる)部分も非常に大きかったと思います。また、世代間伝承という意味においても、親から子への刷り込みを再構築することはなかなかに難しいことだと理解しています、その利点も欠点も含めて。ただ、人が不完全な存在であるからこそ、完全なる存在を希求するのは普通のことでしょうし、当然の流れだと思いますが、だからこそ神が存在するのかどうか?とは関連がないとも思います。どちらであったとしても不完全な人であることは変えられないですから。

テクノロジーの発達や進歩によって様々なことが可能になってきたからこそ、神という概念を疑い、もっと合理的な思考を持て、という主旨には賛同できますが、全ての人がそうなるのはなかなか難しいことだと思います。やはり自分の見たい現実を見る不完全な存在なわけですから。それよりも、信仰や心情を認めつつ、相互理解が深まる手段が重要なのではないか?と感じました。神がいてもいなくても、自身の行動規範に問題なければよいのではないか?と思います。ただ、神が人を作った、完全なる存在が不完全な存在を作った、とする『神話』よりも、必要に応じて考え出された人類の発明の中で最も広く伝わった発明(その発明が、信仰に変わって永く伝えられ信じられてきた)ではないか?と考えた方が、私にはしっくりきます。「レ・ミゼラブル」を読んだ時にも思いましたが、その人が一生を過ごす時間や場所の範囲の中にいる人々のほぼ全員が神を信じて生活している限られた世界では、神はまさに生きているに等しいのではないか?という感触を思い出しました。ただ、人は進化していますし、テクノロジーの進化と共に常識が変わっていき、宗教的なるものからの自由を獲得しやすくなった、ということなのではないか?と思います。またそれでも信仰そのものはなくならないでしょうし。個人の自由であると思います。

神 という概念について、もしくは脳科学者、苫米地さんに興味がある方、あるいは仏教の中のアートマン(自我)はあるのか?ということに興味がある方にオススメ致します。

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