井の頭歯科

「無責任のすすめ」を読みました

2010年8月17日 (火) 09:00

ひろ さちや著         ソフトバンク新書

これも目上の長いお付き合いのある患者さん(「戦略的思考とは何か?」岡崎 久彦著をオススメいただいた方です)との会話の中で知った本です。全く知らなかった方なのですが、かなり過激で極端な方、ではありますが、この方も自分がどう見られているか?に非常に自覚的な方とお見受けしました。ただ過激なだけではないところも多々あります。また知らなかった知識もいろいろあって面白かったです。もちろん多少意見の違うところもありますが。

いかに今の日本が過酷な状況にあるのか?という立場から、自民党への嫌悪、いじめの実情、天皇のお立場、戦争責任、教育問題などを交えて話し、そして何故このような状況に陥ってしまったのか?を探って、なおどうすることが望ましいのか?という処世を示しています。

が、とにかく感情的な部分が大きく、結構過激(笑)です。年齢をご自分で明かし、この方が70歳を過ぎているのがびっくりでした。

私も結局のところ、自民党政権の期間が長すぎたことの責任は感じますし、議会制民主主義を扱う国民の民度が無かった、と言えばそれまでのように感じますが、自民党も上手かったわけですし、少なくとも戦後の復興の凄さは認めても良いと思います。自民党内右派だの左派だのタカ派やハト派を作って党内での議論を作るのはまさに日本に合ったやり方で上手かったと思います。ただ、何事も弊害はつき物ですし、全てが良い面だけしかない、というわけにはいかないですよね。だからこそ、その責任を与党に求めるのはある意味正しいのですが、その自民党を与党にした投票民の責任でもあるのかな?と思うわけです。要は結果責任をある程度負え、という話しなのではないか?と。著者のひろさんは無責任体質が戦後に端を発しているとしていますし、その大きなキッカケが戦勝国による裁判(いわゆる東京裁判ですね、もちろんこの裁判にもいろいろと異論があるのは承知していますが・・・)は行われても、日本人が日本人の戦争責任を問うた某かの公の行為があったのか?ということに尽きる、という主旨をその原因に挙げています。私はこれには強く同意します。

反省や検証も必要ですし、そのことに対して様々な立場の方々が様々な書籍なり、検討なり、論文を書かれていますし、私の知らないいろいろな事柄があるのは理解出来ますが、1度くらい公の場で検証(「裁判」という形ではなくとも)があってしかるべきであったのではないか?と。それをしなかったのは、温情であったのかも知れませんが、時間が経つにつれて温情のはずが欺瞞になってしまったのではないかと思うことが多く(例えば終戦にしても、敗戦とは言わないですし、進駐軍は占領軍でしょうし、転進は撤退ですよね?)、デメリットが多すぎる気がします。敗者や死者に鞭打つ行為を卑劣な恥ずべき行いと見る道徳観は重々承知しているつもりですが、その結果、物事を冷徹に判断する習慣が無く、熱しやすく冷めやすい、忘れやすい情動に任せた行動が大きく、振り子の触れ幅が大きすぎるのではないか?と思うのです。

戦争を指導する立場にあった方々への責任論はあって当然だと思います、亡くなられたすべての方々にとって悲惨で悲しい事実を生んだ某かの責任はあると思いますし、それを支持した国民にも無論責任はあります。指導者の責任を追及することと、その個人を貶めることは同意ではないと思いますし、その立場に立たされれば私なんかはもっと酷い行為に及んだかもしれないのです。が、それでも、その責任を負うのは当然だと思います。また、責任と個人を分けることで、何故こういった結果になってしまったか?について考えを深めることが出来るのではないでしょうか。

あるいは、それが難しいのであれば、せめて自国民による検証や責任論をしていない、という事実はもっと広めても良いのかと思います。実際のところ、サンフランシスコ講和条約締結の際のマスコミなり学者なりの検証するような動きは無かったのでしょうか?そういう部分の『温情』が『臭いものに蓋』的な行為(あえてキツイ表現にすると)にすり変わる負の側面への考慮が足りなかったのではないかと考えます。

閑話休題

ひろさんはさらに「国家は悪である」という持論を展開、ホントに過激です。もちろんただ過激なのではなく、おそらく、これくらい強いことを言わないと溜飲も下がらないし、みんな何も知らなさ過ぎる!という憤りがあるからこそだとは思いますが。そしてだからこその教育問題への切り口も、なかなか凄かったです。中でも面白かったのは「うさぎとかめ」の童話が世界各国によって捉え方に違いがある点でした。

ただ、ここまで極端に無責任論を推し進めていくのには、私は抵抗があります。無責任でよい、というのは考え方として、前提を疑うかのような視野の広がりを感じるところがあって面白いのですが、しかしそれは考えのたがを外す面白さであって、現実にはなかなか難しいところが多いと思いますし、最後に宗教的担保を口にすることの無責任さ(宗教的救いを求めない、認めない人への軽視に映りかねない)のは少し矛盾する部分であると思います。

また、その部分に限って言えば、「唯物論者」や「無心論者」を自身の考えに凝り固まった「私が神だ!」とする存在として揶揄している部分は明らかに誤認だと思います。宗教家が宇宙の真理に基づいているのに対して、唯物論者や無心論者が自分意見に凝り固まった存在だと言及するのには、フェアでないと感じました。もちろんそういった態度をとる人もいるかもしれませんが、宗教家が宇宙の真理を語ってお布施を貪った例もありますし(新興宗教ではあっても、世界宗教であっても吐いて捨てるほどの例があるでしょう)、理性や法則や知性を用いて世界の原理、宇宙の真理を解明しようとする努力の恩恵を受けずに生活するのは今の日本ではとても難しい生活だと思いますし、また自身の考えを押し付けるよりも、唯物論者の方が宗教家よりも反証や反対意見を聞く耳を持っているように感じます。宇宙の真理という絶対の「錦の御旗」を傘に着た(宇宙の真理かどうかを証明せずに、信仰心に訴えているわけですが)行為を行っているのが宗教家ではないでしょうか?

過激さの中に面白い考え方があってなかなか読ませました、責任論に興味のある方にオススメいたします。

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