キャサリン・ビグロー監督 ギャガ
あんまり好きな監督ではない、キャサリン・ビグロー監督。「ハートブルー」と「ストレンジ・デイズ/1999年12月31日」と「ハートロッカー」(の感想はこちら)を観てます。精神的な慣れから麻痺へと至る過程を、それも反道徳的で反社会的な行為によるスリルを描く人だと思ってます。ので、あんまり好みではないです、何故なら、個人的な意見ですが、その精神的な慣れや麻痺に至らないように道徳や信念や理性を使って葛藤する様を描く作品が好きなので、どうしても相性悪いです。割合私には独善的でマッチョに見えるんですね。しかし今作の評判はすこぶるイイので観に行きました。
9.11同時多発テロの首謀者と言われているオサマ・ビンラーディン。CIA分析官であり若い女性で切れ者のマヤ(ジェシカ・チャスティン)はビンラーディン及びアルカイーダの幹部を見つけるため、そして次のテロを未然に防ぐための情報戦の最前線であるパキスタンへ向かうことになります。そこは『法』だけでは扱いきれないルールがある世界で・・・というのが冒頭です。
かなり踏み込んだ部分に焦点を当てた作品なので、とても好き嫌いが分かれる作品であるのは間違いないと思います。が、それにしても脚本や映像、そして音響や演出に至るまで、非常に意志の強さを感じさせる作品に仕上がってます。
様々な見方があるでしょう開かれた(ある程度ですが)作品でありますし、なにしろ関係者の証言に基づいて作られた、とされていますし、その再現度合いは私には分かりませんけれど、臨場感溢れるドキュメンタリーのように(もちろんフィクションなんですけれど)見えます。割合長い尺のある(157分)作品ですが、この緊張感や試行錯誤の憔悴感を伴っているにも拘らず短く感じました。
ネタバレ無しの感想として纏めるのであればこれは『復讐』の話しと私は捉えました。もっと言えば『報復』という事です。ネタバレ無しとは言いつつ、事実かどうかは別としても、報道としてアメリカはウサマ・ビンラーディンを殺害した、という結果を知っています。そこに至る道筋や過程を如実に、淡々と、しかしあくまでモキュメンタリーであるのですから製作者の意図を含んだものであり、しかも事実関係が何処まで正しいのか確かめようの無い証言に基づく映画。それでも充分の見応えある、そして単純なものでない映画に仕上がっています。
コピーには『使命か、執念か。』とありますけれど、そして捉え方は個々人によって違うでしょうけれど、これは私には『個人的報復』として感じられました。マヤは果たして本当に望んだ結果を手に入れたのでしょうか。目的を達成しただけで、その目的を達成するということが結局のところ『どういうこのなのか?』を考えた事があったのか。これが真実であるならば、おそらくマヤはアルカイーダにとって、CAIにとってのウサマ・ビンラーディンになった物語とも言えます。
ある1人の人間の『執念と報復』をリアルに描いたモキュメンタリー映画、それでも9.11後の世界についてもう1度考えて見たい方にオススメ致します。
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冒頭にも書きましたが私はキャサリン・ビグロー監督作品とあまり相性が良い方とは言えません。精神的な慣れから麻痺へと至る過程をあまり比重をかける方ではないからです。しかも反道徳的であり反社会的な行為によるスリルを描く過程やその葛藤については『汲み取ってくれ』とか『こういうヒロイックな行動が当たり前であろう』というスタンスなので余計に呑み込みにくいと思ってます。もっと言えば独善的に見えるんです。無論誰だって独善的な判断でしょうけれど、だからこそその過程や信念や理性や道徳を示さなければならないのではないか?と思うんです。感情ではない、論理が必要だと思うんです。その論理を超えて滲み出る感情であるからこそ、心動かされるのではないか、と。
映画の導入として字幕と音声だけで9.11テロを思い起こさせるのは上手いと感じました。この部分だけがドキュメンタリーとして出来上がっているわけですから、この後のフィクションとしての映画であるのに、ドキュメンタリーと間違ってしまうかのようなリアルでシャープな映像であるこのクオリティを続けることで、間違って『事実』と受け取りかねないくらいの映画として成り立っています。この事件は、そしてこの映画は徹底的にアメリカが敗北している、CIAが敗北している場面から始まり、その時の感情を引き起こすのに最もエモーショナルな方法を取っているように感じます。敗北して傷ついている事を、突然平和が終息してしまったあの瞬間を、鮮明に思い起こさせます、その時の感情を伴って思い出させる演出だと思うのです。
主人公であるCAI分析官マヤは、顔を覚えられることに対する覚悟の様なものを最初から決めているように見えます。拷問に初めて参加する場面でも上司であるダニエルは顔を出して行動し、顔を出すことのリスクを説明された上でも、クールに自ら覆面をとって、改めて拷問に参加しています。マヤは最初から拷問に対する嫌悪はあったかもしれませんが必要性を認識しているように見えますし、その後は徐々に積極的に参加していきます。同僚が殺されたことで、自分が生き残っている者の務めとして、と自分では発言し、行動しているように見せていますが、実の所最初からその意志があるように見えました。マヤはあまり変わっていない(パキスタンのホテルの食堂でテロにあっても淡々としている)ですし、仲間の死という苦い現実を乗り越える覚悟は最初からあったのではないか?と思われました。またテロの犠牲になる同僚のジェシカはより功績を挙げてより良い境遇を得ることを動機にしているように見せ(功を焦っているように見える)ているので対テロ戦争を行っている中では致命的とも言える軽率さが伺えます。
拷問を加えて得ようとしている情報でさえ、あやふやで不明確な情報であるように見え、しかし今のところ打開策が幹部を捕らえて拷問をすることでしか得られないほど追い詰められてる状況であることを理解させるような演出になっていると感じました。実際のところ、そのあやふやな情報の積み重ねとテクノロジーの進化、そして金で解決出来ることは金で解決してみせるという強引且つ安易で脆弱な情報にさえしがみ付かなければならない窮地に追い込まれているCIAの立場に立てば、あるいはマヤのような義憤に感じている立場に立てば、非常にヒロイックな行動にも説得力があるように見えます。が、実際のところは、冷静になって後から考えてみると、結構な疑問が湧いてしまいます。その当時、しかもCIAに席を置くアメリカ市民であったら、これらの行動にはある程度共感出来るでしょうけれど、実際拷問の場面や電話番号を聞き出す手段、そして盗聴という行為を考えると、正義とは何なのか?を考えないわけにはいきません。手段は選ばないことでマヤをヒロイックに見せるように感じました。
映画の後半、ビンラーディンに繋がる伝言者を発見する、試行錯誤や度重なる失敗や障害を越えて、ついに掴んだ所在までの丁寧さと、そこからビンラーディンがその屋敷の中にいるという急転すべき展開の落差が気になりました。無論最終的にはビンラーディンを追い求めていたのでしょうけれど、それが実際に伝言者の屋敷の中で生活しているかどうか?に至るまでの過程があまりに急すぎるように感じました。これだけの失策や失敗や挫折や犠牲の上にここまでに至っているのに、ビンラーディンが屋敷の中に存在することを示す確証が得られていないのに、マヤだけは確信しているというのは説得力は薄く、さらにマヤという人物の分析力の高さという冷静で論理的な部分を否定しかねない、妄信しているかのように見せるのは印象的でした。それほどまでに追い込まれ憔悴していたのか、と感じないではいられませんでした。
実際に政府上層部や大統領と接触出来る立場の人間から「イラク攻撃の際の口実であった大量破壊兵器の存在の方がまだ信頼できた」という部分はまさに納得の発言だったと思います。だからこそ、同じ轍を踏まないための確証を求めているのに対し、マヤはあくまで確認は既に充分という態度を崩さないのが、またヒロイックに見えます。思い込みという可能性も充分にあったはずであるにも拘らず、結局作戦を決行するに至った過程も不明瞭な感じがしました。結局のところどうなんだ、という作戦決行前の上層部による意思確認においてすら、上層部が求めていたのは検証可能な確証ではなく、マヤの度胸という主観的なモノであり、この辺のマヤを持ち上げる描き方が個人的にはマッチョであまり好みではなかったです。監督がマヤに自己投影されているかのような印象を受けました(前作「ハートロッカー」を見たことで余計に)。
実行部隊であるシールズの隊員たちは「違ったら殺さずに帰れば良い」という主旨の発言をしてるにも拘らずビンラーディンを確認するまでに数人の殺人を犯しているのにも違和感がありました。綿密な作戦を立てたとしても、現場では様々なことが起こりうるというのをそれこそ緻密に描くのも、リアルだったと思います。本当のところがどうだったのか?というのはワカラナイにしても、充分本当に起こった事に見えるリアリティ高い映像にはびっくりさせられました。
という様々な事柄や後から知った知識を入れたとしても、そもそもウサマ・ビンラーディンを今殺害することに何か意味があるのでしょうか?捕らえて拘束し、尋問や裁判にかけ、検証を行うことの意味は理解出来ますが、殺害する、というのは違うと感じます。
マヤがビンラーディンを殺害したことで得る感情は予測されたものであり、虚しいモノであったと感じます。苦い後味ですけれど、充分予測される事でありカタストロフィは存在しませんでした。満足感もあるでしょうけれど、アルカイーダを支持する人々にとっては、マヤが新たなCIAにとってのビンラーディンになっているように感じました。復讐の連鎖は続くのでしょう、これが現実なんでしょうけれど。
[…] 「デトロイト」を見ました 2018年12月3日 (月) 09:14 キャサリン・ビグロー監督 ロングライド キャサリン・ビグロー監督作品とは、やや相性悪い気がします。扱っているテーマが個人的に好きになれない部分がありますし、あまりに、あまりな展開も、なんですけど、良い映画でもある気がするし、まさに現代的な監督だと思います。ややマッチョよりな部分が鼻につくのかも、ですけど。でも、過去作の「ハート・ブルー」は良い意味でスリル・ジャンキーの存在を知れたり、「ストレンジ・デイズ/1999年12月31日」の脳内再生機能という面白さ、「ハート・ロッカー」(の感想は こちら )の人の慣れの為に崩れてゆく感覚の怖さ、「ゼロ・ダーク・サーティ」(の感想は こちら )での正義のあり方への描写、と本当に現代性の高い監督さんだと思います。 そんな監督の最新作、しかもジョン・ボイエガが出演と聞いて見に行くつもりだったのですが、忙しかったのと、公開期間がかなり短かったのが影響して見逃してしまったのでDVDで見ました。 2018年見逃し後追い作品その5です。 1967年、デトロイト。その当時はどのような状況であったのか?を2、3分のアニメーションで描いてくれます。この部分はとても重要な舞台設定で、史実的にどうなのか?分かりませんが(私が生まれるたった3年前の出来事です)、とても厳しい状況に置かれている黒人たちの状況を理解させてくれます。そんな1967年のデトロイトにある酒場に、警察が捜査をしに来ます。そこでは裏口から容疑者を運ぶつもりが・・・・というのが冒頭です。 大変難しく根深い問題を、ある事件と絡めながら、しかも当時の映像も差し込む、とてもドキュメンタリータッチで描かれた作品です。人種差別問題とも言えますし、猜疑心と混乱の中での暴力の恐ろしさを描いた作品でもあります。 実際に起きた事件アルジェ・モーテル事件を扱った映画です。ですが、このアルジェ・モーテル事件には様々な要素が深く絡み合い、しかもアメリカの、今でも続く問題がにじみ出ている事件でもあります。 とても説明するのが難しい映画ですし、物凄い緊張感があり、緊迫感が持続して途切れません。まさに生死の境を垣間見ます。 差別の問題も、もちろん重要ですし、なくなれば良いとは思いますけど、大変難しい事だと思います。また、暴力を持つ者と持たざる者の意識の違いを、大変強烈に見せつけてくれます。 無意識の差別、偏見がある事も、強烈なメッセージとして含んでいる作品です。 しかも、1967年、たった50年前の出来事で、しかもまだ、今も解決していません。 今までのキャサリン・ビグロー監督作品の中で、最も面白く、好みで、そして重たく、キツイ現実を向き合わされる映画でした。これは2018年公開作品としてはかなり上位に来る作品だと思います。 警官を演じているウィル・ポールターさん、初めて見ましたけど、もうこの作品の印象しか残らないくらいの強烈な演技だと思います。そして演技だとしても、この人の事を嫌悪しそうなくらいに鬼気迫る演技でした。 そして、ジョン・ボイエガの、まっとうさを、強く感じました。大変難しい立場に立たされ、孤軍奮闘しているのに、それなのに・・・ジョン・ボイエガさんの出演作の中では最も良かった、と思います。非常に厳しい立場に立たされ、それでも何とか『命』を救うための行為を諦めない人物の目の演技が素晴らしかったです。 人種差別という大変根深い問題、そして暴力の問題に興味がある方にオススメ致します。 アテンション・プリーズ! ここからネタバレありの感想です。未見の方はご遠慮ください。 ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ フィリップ・クラウスを演じたウィル・ポールターが本当にすさまじい、もう悪い人にしか見えません・・・大変な差別主義者で利己的、かつ、他人に罪を擦り付ける事も、事実を捻じ曲げる事も、そして心底白人と黒人の間に「人間」である/ないのラインを引いている男として描かれています。怖いのは、この男が特殊なのではなく、特殊な状況に置かれたら、この男と同じ行動を取りそうな人間がいっぱいいるし、今もいる、場合によっては自分もかも、という事実が恐ろしいです。 だからこそ、ディスミュークスを演じたジョン・ボイエガの、命を救う為に白人と黒人の間を行き来する行為が英雄的にさえ見えました。自らが危険な場面に陥りかねない、恣意的な判断を下しかねない相手に、黒人として立ち向かう事の恐怖たるや、私の目には英雄的行為に映りました。 クラウスに従う2人の警察官のうち、心変わりをするデメンズを演じているが、あの名作「シング・ストリート」のジャック・レイナー!あのお兄ちゃん!!全然分からなかったです、役者さんってスゴイです。で、このデメンズも、結局真実を話したにも拘らず、その後証言を変えて、無罪になっているのが本当に悲しい気持ちになります。司法制度の問題も大いにあると思いますけれど、それにしても、という他ないです。 確かに、警察官としてクラウスの行動は独善的過ぎますけれど、一瞬でも気を抜けば暴徒に襲われる可能性もある街=戦場と考えるのは分かる気がします。でも、その場でも警察官は公権力側なので、十分に法律は守って欲しいです。絶対的な銃という装備をしているのですから。 銃がある、という思い込みに支配されてしまうには、その前にとても緊迫した空気に支配されているからこそだと思います。しかし、そのような状況を作ったのも、ある種の対立が原因です。スターターで黒人の立場を女の子に説明したクーパーのセリフは非常によく分かると感じました。多分、本当に、そう感じているのでしょう。 本当のところは分かりませんけれど、この映画の冒頭の酒場への捜査、捜査している側の警察官も、表通りではいけないという後ろ暗さがある、しかも内部通報者を使っているし、脅しとしても利用している、という事を考えると、いかに状況が悪かったのか、警察側も危ないと思っていたし、危険だとも考えていたわけで、根深いですね。 また、デトロイト出身のボーカルグループ『ザ・ドラマティックス』のリードボーカルをラリー・リードを演じているアルジー・スミスの演技も素晴らしかったです。 恐ろしいまでに緊張を強いられる一夜を過ごしたことで、その後の人生までも狂わされてしまった人々。その後もすさまじいですね。特に裁判結果、さらに、クラウスに話しかけられたディスミュークスの行動、本当に全然終わってないです。 […]