長谷川 修一著 中公新書
聖書の考古学、しかも遺跡を扱っているということで興味を持ったので手にとりました。特にまえがきで書かれている聖書に書かれている出来事を、良く言われるある意味荒唐無稽な話しを、歴史研究と考古学的調査の成果を持って出来うる限り捉えようとする試みであり、その学問を聖書考古学と呼ぶ、という辺りでグッと心動かされました。信仰心は無いのですが、キリスト教と考古学の関係については興味あります。聖書をちゃんと読んだことはありませんが、ある意味最も読まれている本ですものね。
旧約と新訳の違い、そしてそれらを取り巻く状況を語った後で、一体聖書は何故書かれたのか?そしてどの程度古い写本が存在するのか?写本の違いから推察される事実、歴史的な出来事と判断しうる際の手段についても語られ、納得しました。確かに、ある文明や文化があったとしても、ひとつの証拠だけでは不十分なわけで、違う文化や隣接する国の文献の中に確認できることがあって初めて事実であろうと示されるのは本当に正しいと思います。1つの物的証拠だけでは考古学の世界では通用しないんですね。そしてもうひとつの大きな問題である、何故書かれたのか?についての推察が素晴らしいのです。「国民国家」、「連帯感」、「正史」という単語で示される聖書が書かれた理由は翻って日本における古事記の存在を知ることに繋がります。
ヘブライ語のアルファベット(旧約聖書はヘブライ語で書かれている)が刻まれるのが、およそ紀元前9世紀でして、その後紀元前8世紀に飛躍的な広がりを見せることから推察される最も早い旧約聖書の書かれた次期のあまりの古さにびっくりしました。私が知っている知識はとても少ないのですが、「人類がたどってきた道 ”文化の多様化”の起源を探る」海部 陽介著(の感想はこちら)を読んだ事を思い出しました。
考古学が明らかに出来る限界にもきちんと言及されているのも好感持ちますし、やはりその過程を表す部分、発掘の仕方や年代の特定の仕方など、実際の手順を説明されるのが面白かったです。実際の発掘はやはり気の遠くなるような細かい手順の繰り返しですし、まさに一期一会の世界だということが理解出来ました。個人的には考古学という言葉から連想されるのは漫画「MASTER キートン」浦澤 直樹著の主人公キートンのことや、映画「インディー・ジョーンズ」シリーズの主人公インディアナ・ジョーンズ博士ですけれど、とてもユニークな主人公たちだと思います。
文献(碑文や石碑に見られる文章)の書き手の意図が反映されていることを考慮に入れておくことの重要性を説かれ、証明できる範囲を決めておくことが示される部分も興味深かったです。だからこそ信仰心を持つ人々が「聖書は無謬である」という態度を取ることへの対抗としての「学術的(つまり批判的)」な態度を取ることで得られる新たな知識や発見が重要であることへの言及も理解し易かったです。私は信仰心が無いために余計に頷いてしまいました。
実際のところの、聖書に記述されているアブラハムやヤコブなどの年齢やその系譜を科学的に否定しつつ、だからこそこの記述が書かれ(書き手の意図)た意図を探る事がより鮮明になるという立場をとるのも知的興奮がありました。ただ単に否定するのではなく、何故そう書かれたのか?を明らかにすることで(正確に記載するならば、何故ありえないほどの表現を用いたか?を推察して理由を絞ることで得られる知識)より聖書というテクストに肉薄出来ると考えるのが面白かったです。
ゴリアテとダビデのくだり、個人的に興味あるフィリッポスⅡ世、そしてその息子アレクサンドロス3世の東征によっておこったヘレニズムへの関わりも知ることが出来たのも嬉しかったです。さらに名前だけは知ってるけれど一体本当のところ何なのかよく分からない死海文書についても知ることが出来て良かったです。なるほど、これは大変な発見ですよね。
そして考古学の影の部分である2000年に起きた「旧石器捏造事件」についての筆者の意見が聞けたことで、より信頼出来るようになりました。ネガティブな情報を隠さず、進んでその事件に対する態度を明らかにすることが私には良い印象を与えてくれました。また、特定の目的の為に表現を歪曲したり、ある事実を利用したりすることがある、という記述を載せ、チェックすることの重要性お説くことは、まさにリテラシーを高めることに繋がる重要な点だと考えます、この姿勢も好印象に繋がりました。
聖書という人類にとって最も読まれている本に対する、学術的な視点からの(ということは結局、リテラシーを高める作業でもある)解釈を知ることでの、より深い理解に興味のある方にオススメ致します。
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