井の頭歯科

「恥辱」を読みました

2014年6月20日 (金) 08:59

ジョン・クッツェー著   鴻巣 友季子訳   早川書房

親しい友人からお借りしました。訳者の鴻巣さんのエッセイ「カーヴの隅の本棚」と一緒に借りて今はエッセイの方も読んでいますが、なかなかの切れる方だとお見受けしました。とくにワインへの情熱と造詣の深さと、それだけでない愛情を感じさせる文章です。

52歳になるデヴィッド・ラウリーは大学でかつては文学部の教授であったのですが大学の大規模な再編に伴って、やりたくもないコミュニケーション学部の准教授です。生活の糧をこの職から得ていますが、望んだ仕事ではなく、学生を教える事にやりがいを感じる事もなく、向いてもいないと感じています。ラウリーは2度の結婚と、2度の離婚を経験して今は独り身なのですが・・・というのが冒頭です。

とても読みやすい文体です。しかも1人称と3人称を上手く分けて書かれています。ある物語の転換点でその視点を変える行為が行われていて、とても面白く感じました。タイトルの通り「恥辱」を扱った作品ですので、ダークで、アンモラルなストーリィですが、身につまされるモノがありました。ある意味どこにも逃げ場のない感覚であり、因果応報ともいうべき物語です。その突き落とされる感覚をリアルに感じさせてくれます。

人間にはリビドーが存在するように、同じく理性も持ち合わせています。そのせめぎあいの中での葛藤が起こるわけです。その葛藤を、とある男デヴィッド・ラウリー(個人的にラウリーと言ったらもう「未来世紀ブラジル」のラウリーしか思い浮かべられないです!)が不条理な世界を、社会を、そして生命与奪の権限を、味わう事でとてもカタストロフィ溢れる物語になっています。

ネタバレは無しでの感想ですので、あまり細かく言及できないのですが、冒頭は私はよくあるドラマの展開だと感じていましたが、その後ある事件が起こりラウリーの立場が逆転することで、両方からの視点を得る事でのより深い葛藤を覚えるところが際立っていると感じました。さらに、そこに娘であるルーシーとの対比も素晴らしかったです、理解はできないけれど、素晴らしいと感じさせてくれました。

文明社会と、あえて選択する未分化社会と言うか田舎の生活の対比、男女の差、親子の意向の差異、かなり様々な事柄を扱いながらも、大筋としてはタイトルの通り「恥」を扱ったストーリィです。恥をかかない事を望みながらも、生きていく、生活していく事はまさに恥の連続行為とも言えるのではないか?考えさせられる作品だと思います。

私は男、という性別なので、ラウリーの気持ちを想像しやすいのでしょうけれど、泥沼に、ゆっくりと、しかし確実に飲み込まれていく(さらに厄介なのは、そこに沼があることを自覚している・・・)感覚のどうしようもなさ(少し前に観た映画「誘う女」の中に出てくるラリーという役を演じたホアキン・フェニックスのような感覚と申しましょうか・・・映画「誘う女」の感想はこちら)を、想像の感覚ですが、理解しやすく感じるのです。もちろんそれだけではないのですが、逆にルーシーの考えの不明さ、感覚の届かなさ、ある意味別の世界の人間化のような断絶も感じました。そのうえでの顛末にかなりショックを受けました。
果たして物語の最後、ラウリーは何を思っていたのでしょうか・・・

人間の根源的な欲望と、それに伴った世界の不条理が気になる方にオススメ致します。

アテンション・プリーズ!

とはいいつつ、どうしてもネタバレありで考えてみたい(ということは私には文章にしてみたい、ということなんですが)のと、誰かの感想も聞いてみたく、未読の方はご遠慮くださいませ。

ラウリーの、性生活の破たんのきっかけは、相手が娼婦ソラヤであった事で、まさにどうにもならないわけですが、そこからゆっくりとぬかるみに捉われていくのが非常にリアルに感じられました。娼婦であるソラヤとの関係を「都合よい」と考えているのと同時に、さらに「都合よく」もっと深い関係を望み、揚句関係を切られてからのラウリーの泥沼にはまっていく様は、とてもリアルな(どこにでもありそうな話にリアリティを持たせるのは技術だと思います)エスカレーションだと感じました。そこから自身の欲望を理解しつつ、言い訳や止めておけ、という自身の理性の声を聴きつつ、それでも止められなくなっていく様は、何かに拘泥している時の心の動きとして理解出来ます。

教え子と関係を持つ、ということの道徳性の問題やリスクなどの問題は当然承知の上での泥沼に足を踏み入れてゆく破滅的な行動を、分かるとは申しませんが、理解しやすいとは思えます。

何故なら対象的な人物として描かれる娘のルーシーの行動が、未発達で暴力と自然の田舎社会への適合としてあらゆる(私には、ですが)事を受け入れる事で生活を成り立たせる道を選択するのです・・・これが私には文明や文化を、発達や進化を拒むくらいの衝撃がありました。全然理解できないけれど、そういう選択をあえて(でもないように見えるんですが・・・)する人がいる事を知ってはいましたが、こういう見せ方をされるととてもショックを受けました。

最後の足の悪い子犬の避けられぬ運命を早めるラウリーは、この先自死を選択することはないにしても、『死』を『救い』と扱っているように感じられてしまいました。

バイロンを諳んじられようと、大学教授の職を得られるほどの学識を持っていようとも、暴力と理不尽な世界ではおよそ何の役にも立たないのではないか?という恐怖も感じられました。

教え子で被害者の父親の寛容さにも、どこかしら鼻白むものを覚えましたし、しかしだからと言ってどのような態度が望ましかったのか?も分からないんですが、その理解不能さに、リアリティを感じました。

“「恥辱」を読みました” への1件のコメント

  1. […] とても読みやすく簡潔でいいな、と感じました。それは少し前に読んだ「恥辱」(の感想はこちら)とこのエッセイを読んで特に強く感じられました。本人の言葉と翻訳という違った道筋 […]

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