マルガレーテ・フォン・トロッタ監督 セテラ・インターナショナル
第2次大戦後、南米アルゼンチンに潜伏していたナチスドイツのSSアドルフ・アイヒマンをイスラエルの諜報特務庁、いわゆるモサドに拉致監禁され、イスラエルでの裁判が行われることになったニュースが世界に報じられます。ユダヤ人として教壇に立っていたハンナ・アーレントは自身ナチスドイツから亡命した経験を持ち、裁判を傍聴したいと強く願い行動を起こしたハンナは・・・というのが冒頭です。
とても有名な哲学者ですし、それだけでなく、師であるハイデガーとの関係性もあって色々な意味で「有名」な人ですよね。著作は読んだことが無いのですが、なんとなくハイデガーとの絡みで知ってはいましたが、詳しくはなかったので良い機会でした。
映画はとても抑えた表現もしていますし、実際のアイヒマンを映像で見たのが初めてだったのですが、かなり説得力ありました、非常に達観した(といいますか諦観でしょうけれど)表情を崩さないのが印象的でした。
また、アメリカでも『空気』という名の同調圧力が存在し、個人主義の社会でもそれなりに機能している事を認識させられました。
ネタバレは出来るだけ排除しつつですが、映画の結末は開かれた解釈で(というかハイデガーとの関係もとても曖昧に見えます)面白かったんですが、どちらかと言えばハンナの夫婦関係と友人関係にフォーカスが当てられた作品、もう少し階段教室での場面を長くして、議論を起こさせても良かったと思います(この場面のある少女のまなざしの「演出」は、少々情緒的過ぎて、あざとい感じがしました)。
ハンナ・アーレントに興味のある方、悪の凡庸さに興味のある方、あるいは理想的な官僚の一形態としてのアイヒマンに興味のある方に、オススメ致します。
悪の凡庸さ、という考え方は刺激的です。悪は選択的に邪な意識の基に(あるいは無分別な為に意図されずに行われる)起こるのではなく、考える事を放棄した結果に出現する、と。そして官僚というと思い出されるのがマックス・ウェーバーです。理想的な官僚はどんな感情にも判断や迷いをせずに義務(上からの命令)に従う人間の事であると言います、非常に難しい話しです。命令が理不尽で不正義であったとしても命令に従わなければ組織の中で生き残れません、よって命令に反する事は出来ないけれど、命令に従う事は自分の判断基準を捨て去り、その善悪判断も捨てる事になります。生きていく糧を得ているのが仕事に依存すればするほど、命令違反は出来なくなるわけです。
こういう視点で軍隊組織を見せられるのが「アメリカン・スナイパー」と「ブラックホーク・ダウン」ですね。どちらも軍隊という組織の中での個人的な葛藤があります。
で、こういう「悪の凡庸さ」という概念が理解されているなら、組織の中に対抗できるシステムを組み込まなければいつまでも個人の特性に頼るしか方法が無く、社会的な成熟度を測る一端として捕えても良いような気さえします。とくに『空気』を重んじる日本という社会では重要な気がします。悪の凡庸さ、を視座に入れると歴史的な出来事を簡単に善悪で語れなくなります。
つまり善が刷り込みなのであれば、悪は組織に無意識であればあるほど被害が甚大になる可能性がある、という事になりますし。やはり考える、という事が(映画内で、しつこくThinkと言い続けるのはハンナではなくハイデガーなのが印象的)いかに重要なのか、ある意味考える、ではなく考え続ける、という事が重要なのではないか?判断を保留し、保留出来ないのであれば、その決断に責任を持つ事を『覚悟』しろ、と言っているように感じます。
私は特にこういう考え続ける、という事には親和性があるけれど、そうは言っても極限状態や切羽詰まった状況では簡単に同調圧力に負ける人間である、という事を突き詰められます。ナチスドイツが存在した時間に生まれ生活するアーリア人だったとして、自分がアイヒマンと違った行動を取れるか?とても疑問です、弱い流される人間の一人だと思わされるのです(変な話しですが、これを強く意識させられたのは映画評論家の高橋ヨシキ氏の存在です)。
多分抵抗するには、感情を理性で、考える事で乗り越える努力を払えるか、そしてそもそも人間は弱い存在である事を認め、システムとして組織の中で共通理解をして、弱くても対抗出来るシステムに組み込む事が必要なのだと思います。
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