全然知らなかった監督コスタ=ガヴラス、しかし、映画好きの友人の方が「日本の戦争映画に無い部分が描かれている」という一言で、絶対に観ると決めた映画です。でもタイトルが「ミュージック・ボックス」ではなかなか戦争犯罪映画だとは思えないですよね。しかも法廷劇!だいたい法廷劇は面白いと決まってるようなものですし。
恐らく、第2次世界大戦から30数年後のアメリカ。弁護士のアン(ジェシカ・ラング)は突然父親の永住権に対する裁判の弁護をする事になります。父であるマイク・ラズロ(アーミン・ミューラー・=スタール)はハンガリーからの移民ですが、30年勤勉に働き、娘を弁護士にした男なのですが・・・というのが冒頭です。
過去の疑惑に伴う、しかもナチスの件となると、穏やかではありませんし、父を慕う娘であるアンは、当初、専門の弁護士をすすめていたのですが、父ラズロから説得されて弁護を請け負う形になります。父からの絶大な信頼と、家族の愛を描いた作品でもあります。もちろん、かなり特殊なケースではありますけれど。
裁判で争われる争点に、どのような決着を付けるのか。裁判では事実かどうかが争われるわけですけれど、様々な物証を頼りにはするけれど、その真贋ではなく、妥当性だったり、可能性だったり、言葉で戦う決闘のようなものだと思います、ルールがあり、ジャッジするのは神様ではなく人間の言葉による決闘です。ですので、情に流されたり、またそのようにあえて見える事をしてみたり、人間のジャッジする事なので、事実を争っているようで、実は事実はどうでも良くて裁判で争っている双方の人間の合意、を求めているわけです。そして裁判結果は、確実に(控訴がいつまでも続くわけではありませんので)事実と双方以外の人間も認めるお墨付きを与えているのだと考える事も出来ます。
ミック・ジャクソン監督の「否定と肯定」(の感想は こちら )の法廷劇の時も同じことを思いましたけれど、実際に明らかに不利な状況証拠しかない場合でも、裁判官である人間がジャッジしているので、裁判結果が間違っている事、私はあると思います。そして恐ろしい事に、裁判結果を控訴以外で変える事は、かなり難しい、と言う事実です。人間は間違いを犯しますし、決定的証拠が無い事で、不当な判決が出る事もあると思います。だからこそ推定無罪は重要です。
弁護士として働いているアンは、当然その事を知っている。ですので、反証、弁護する際も、事実を争っているようで、実は信憑性を争っています。そして、嫌疑をかけられている身内である父ラズロの言葉の端々に、些細な違和感を覚えているのです。娘として父親を信じたい気持ちと、弁護人として被疑者の利益を守る事、これは一瞬完全に重なるようでいて、少し異なるのではないか?とも思えるのです。実際、アンは非常に悩みますし、時には離婚した夫の父である高名で経験豊かな弁護士にアドバイスを求めます。そして、実際に見事な反撃を行うのですが、しかし、というのが本作の最も面白く、そして考えさせられる点だと思います。
アンを演じるジェシカ・ラングさんはあまり良い印象を感じませんでした。普通に良かったけれど、もう少し抑えた演技で、出来たらもう少し線が細い感じの方がより苦悩する感じが出たんじゃないか?とも思います。そして、検察官を演じるフレデリック・フォレストさんが凄く、イイ演技をしています。私は彼がこの映画の中で1番好きなキャラクターです。昔の事だとしても、今の基準で裁く事だとしても、それでも、犯した罪を償わせる意味を見出す人、という印象があります、もちろんそれなりに黒い所もあるんですけれど。それと、年を重ねたジョセフ・ゴードン=レヴィットっぽさhがある、愛嬌を感じるのです。
そして最も演技が難しいラズロを演じるアーミン・ミューラー=スタールの演技はとても含みを、幅のある感情を宿している、と後から理解する感じが良かったです。
この映画をオススメしてくれた、大変映画にも、音楽にも、小説にも、いわゆる文化的なモノに造詣の深い、しかしたった1歳違いの方が、この映画を指して『日本の戦争映画の中には絶対に無いモノがある、それは加害性だ』という大変重い言及がありましたけれど、本当にその通りだと思います。
結末の重さ、それも引き受ける重さの、なんとヘヴィーで潔い事か。これは私は個人が確立している文化圏だから起きる出来事だと思いますが、しかし、儒教の国では難しい気がしますね。私はイマヌエル・カントを思い出したりしました。彼はたとえ話で、身内に犯罪を犯した人間がいて、匿う事もするけれど、警察など公的機関に問われた場合は嘘を言ってはならない、と答えています。嘘は言わないけれど、匿う事はする。問われれば答える。凄く自律を感じます。
もし、日本の戦争映画を観た事が合って、家族の絆がいかに素晴らしいものであるのか疑った事が無い人にこそ見ていただきたい傑作。出来れば、日本が敗戦した事実を、事実として受け止めているのではなく、たまたま運が悪かった、くらいに考えている事で自らの判断を、自己よりも巨大な、国家や、理念に仮託して自己認識肥大になっていないか不安に感じている人に、オススメ致します。判断を他者に預ける、自ら放棄して預けてしまう事ってとても怖い事だと思います。一見楽に見えて実は非常に愚かな事だと思うので、自戒を込めて。
果たしてラズロ氏は何をして、何をしなかったのか?それを受けて、アンは何をして、何をしなかったのか?私はアンを支持します。
戦争映画を観た事がある人に、オススメ致します。
アテンション・プリーズ!
少しネタバレ有の感想をまとめてみたいと思うので。未見の方はご遠慮ください。
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まさに家族の絆の話しです。そう、その絆がどう描かれていくのか?がこの映画のサスペンス部分を担っています。弁護をしながらも、アンが明らかになる事実に対して、法廷での事実だけを争うのではなく、信憑性を考慮する弁護に軸足をずらすシーンは、大変絆を深める事になると思います、何しろ、事実ではなく裁判での証明、これが事実ではない可能性を高める手段に訴えるですから。KGBを使ってまで、つまり当時の敵の手を使ってまでも、事実を認めさせるのではなく、信憑性に揺らぎを与え続ける弁護をする中で、アンの心境もかなり変わっていったことでしょう。
ここで、私はハンガリー政府が行っている過去を暴く事の意味についてどんな経緯があるのか?は理解していません。が、確実に起こった事に対するある種の正義の発露を期待する事に、昔のことだし、家族が大切なんだから、という理由だけで、もしくは親しいから、個人的に好きだから、という感情だけで、ラズロを許す事が出来る社会を、恐ろしいと思います。
ラズロは、過去に起こった事実を事実として知っている、唯一の人間です。被害者であっても時間の経過が30年を超える場合はなかなか確実性を示す事は難しいと思います。が、本人だけは知っている。しかし、自分を騙し続けられる人は少ないと思います、過去改変を自分に信じ込ませることのできる人間に罪悪感は生まれるのでしょうか?分かりません。
そんなラズロを弁護していたアンが、認めるのはかなりキツいと思いますが、それでも弁護していた家族から切り離されるラズロの心境はいかほどだったのか?と言う点と、そして、もしかすると、あのような凶行を日常にしなければ生きて行けなかった世界だったかもしれない世界を歩いていたラズロの、心の中を考えると、何も言えなくなります。それでも正義に価値を置くことの意味はあると私は思います。
日本の場合はすべての国民が被害者である、というタテマエがあまりに流布し過ぎていると思います。当然、その国家の政府を認めているのは国民ですし、反すれば逮捕や死が待っていたのも事実だとしても、等しく、国民にも罪はあります。その上で、東京裁判のようなある種の茶番があったとしても、受け入れざるを得ないし、無かった事になならない。さらにサンフランシスコ講和条約に署名している訳で、2重に意味を成さない。本当は日本の国民国家が、先の戦争を総括しなかった事に問題があると思います。でも、してこなかった。ココに未成熟で幼稚で主体性の無い国民が生まれるわけです。
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