マギー・ギレンホール監督 Netflix
多分私が根暗な性格なので、こういう作品を好んで観ているのだと思いますが、アクションが凄かったり、火薬の量を競ったりするよりは、会話劇や伏線に、特にストーリーに最重要の価値を感じます。演出、演者が二の次になり易いです。それと結末にハッピーエンドを求めないタイプでもあるので。ま、その辺は好みの問題とも言えますけど。
ギリシャの島にリゾートに来ているレダ(と言えば・・・ギリシャ神話のアレですね。演じているのはオリヴィア・コールマン)は1人でバカンスを過ごすつもりなのですが・・・というのが冒頭です。
もっと最初だけ言えば、暗い浜辺に急に倒れる中年女性は・・・が正確な冒頭です。
まず、ネタバレなしですと、結構難しい感想になってしまいますが、初めて観る監督作品でギレンホールって、と思ったら、ジェイク・ジレンホールの姉でした。芸達者な姉弟ですね。しかも初監督作品でこのレベル!という完成度だと思います、もう少しタイトにも出来るとは思いますが。
しかし、最近初監督作品でこのレベル?!って人が多すぎませんかね。信じられません。
基本的には女の人に向けた映画だと思います。ただ、洋の東西を問わず、恐らく子育て、という正解が無い、というか人によって違う上に、育てられた側からも将来反論が来るであろうタスクの重要性と難易度を考えると、そう簡単に手が出せないようになるのは普通というか人類の成熟と言えるかも知れませんが、でも、勢いもあるかも知れません。これは育てた人でないとワカラナイと思います。
でも、この話しの主人公レダが男だったら、と思うと、全然よくある話しに見えなくもないです。
もっと言うと子育てに必要かどうか分かりませんが、アプリオリに備わっている事になっている、母性の話しかも知れません。
私には母性は無いと思いますが、それは私が性別上の男だからであって、後天的に備わる人もいるかも知れませんし、先天的に誰にでも少しはあるのかも知れません。が、有る事になっているのは問題な気がします、証明出来ないですし。何がノーマルなのか?時代や個人差が大きい気がします。
でも、母性的な行動と個人の欲望が相反する事は全然あると思いますし、勝手な期待や役割の刷り込みも嫌だとは思います。そもそもどこまでが誰の責任なのかよく分かりませんし、社会の責任もある気がしますけど、世界最大の秘密結社(と言ったのはエリック・シーガルで、その通りだと思うので引用)である母親にも、いろいろな人が居ると思います。
この映画で言えば、40代後半になったオリヴィア・コールマンと、20代のダコタ・ジョンソンの邂逅とか関係性の話しにも読み取れますが、個人的にはオリヴィア・コールマンが過去を振り返る話しだとも言えます。
母親になった事がある人に、もしくは母親という役割を負った人に育てられた事がある人に、オススメ致します。あるいは、オリヴィア・コールマンの最近の演技がかなりイイ!と思っている人に。
アテンション・プリーズ!
ここからはネタバレアリの感想です。未見の方はご注意下さいませ。
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
↓
子供という他者とどう折り合いを付けるのか?それも子供の側からは絶対的な、いなければ死んでしまう所まで含んだ、哺乳類としての依存性と無垢なる信頼があります。哺乳しないと生きていけませんから。
それでも、母という人間にもいろいろな欲望があるわけです、結構下世話なリビドーを含んでいる可能性すらある。今作でも2名、該当していて、淡い連帯感すらある。
そして男性というだけで、それを無邪気に、称えたり、芸術作品(山田五郎さんの「オトナの教養講座」にもいっぱい出てくるし、文学作品なんか普通にありすぎますよね・・・)にまで高めてしまったり、英雄色を好むといった格言にまでなっている事を踏まえると、すでに文化になっていると思う人(私です)がいてもオカシクナイくらいに刷り込まれていると思います。
それを女性がやっただけの事ではあるし、恐らく見えていないだけで、たくさん存在していると思います。思うのですが、シンプルに、子供を置き去りにする、というのはなかなか見ないように感じます。その上出てこないレダの母親も相当な人物のように伺える。いわゆる毒親と最近は言われるのでしょうが、ネーミングセンスは置いておくとして、単語として流通すると人口に膾炙する典型的な例であって、多分昔から存在していたと思います。
その大きな理由は2つ存在しているように見えて、まずは仕事の評価、次にその仕事の評価をした相手との恋愛感情でしょう。指導官もさりげなくレダに「彼の戦略が今夜は成功するか楽しみだ」と嫌味とも取れるけど、ちゃんと伏線を張っています。ただ、頭に虫が沸いていると(恋しているの比喩表現です 念のため)そういう些細な事にも注意が向かなくなる傾向が強いと、個人的には思います。
子育ての責任が人間を押しつぶす、けだし名言だと思います。能力の低い人間は無理しない方が良いのですが、人は皆憧れとか思い違いとか勢いで過ちを犯すものですし、不完全な生き物ですから頭脳明晰な人間が突き詰めて考えても、うまく行く可能性がそもそも低いように思います。そして何よりこの世界そのものが不条理に満ちていますし。
子育てが上手くいくか?は運しだいだと思います。
それでも、子供を産んだ(もちろん1人では産めないわけで協力した遺伝上の父がいるはず)責任は発生します映画「存在しない子供たち」ナディーン・ラバキー監督作品でも言われていますが「私を生んだ罪」のような『何か』が存在するような気もします。
しかし、その『何か』は、当然2名にかかってくるわけで、これだけ難しいタスクなんですから協力体制が望ましいですし、昔はそれこそ町ぐるみだったはず。でも、個人的欲求を求め続けた結果、核家族単位での仕事(親親族との同居を嫌がった、自由を手に入れたとも言える)、そして恐ろしい事に、シングルマザーという単語が流布するほど1名で行う人がいるのも事実なわけです。因果応報かも知れませんが、レダも認めている様に、勝手な行動の結果、娘2人を生物学的父という元夫に押し付けた。その上で、舞い戻ったわけです。うん、大変身勝手に思います。
レダに、ウィルというアルバイトへのどのような感情があったか?は不明ですけれど、まぁ下世話な何かがあったかも知れませんし、心の中で思う事に罪は無いと思います。
しかもウィルとダコタ・ファニングの都合に、家を貸してもイイとも思っている。
コメントを残す