酒井順子著 文春文庫
カミングアウト、というか告白すると、別に私だけじゃないでしょうし、かのルース・ベネディクト著の「菊と刀」でも言及されているように、私が最も忌避するのは『恥』です。だから、とても日本的であり、昭和的であると思います。罪よりも恥を恐れます。
そういう意味で、非常にそそるタイトルであり、しかも名エッセイストでありあの名著「負け犬の遠吠え」の酒井順子さんの文庫ですから、気がついたら購入していました。そして凄く短い時間で読んでしまいました。何かに集中して、本が読めるしあわせを、今は手にしているのだな、と思います。もし役職についていたら、こうはいきません。歯科医師会の理事をしている先生方には頭が下がります。
酒井順子さんが考え、感じる『恥』は95%同意出来ました。物凄く微細でささやかで、穿った見方とも言える部分もありますけれど、個人的には95%は同意出来てしまいます・・・
中でも気になったのが、中年とSNSです。いわゆるSNSを覚えた中年の「やらかし」について指摘しつつ、もちろんそれは楽しかったり、最初だからこそ、マナーが出来上がって無かったりしているからで、その後徐々に整っていくのも面白いと思いました。私の知り合いの年上の方が、頻繁にSNSに投稿している、という話しを聞くと、それはそれなりに恥ずかしい事だな私のような考えですと、と感じます。もちろん、皆が好きなように好きな事が出来るのは良い事です。
さらに、田舎の同調圧力や世間にまで『恥』の文化から見える世界を、割合分かりやすい文章で読ませてくれます。そうそう、と頷きつつ、流石に名エッセイスト酒井順子さんの視点は非常に微に入り細に穿った、と全面的に肯定しているのですが、酒井順子さんが、私のこの文章を読んだら「褒め殺しつつも結局自意識過剰というニュアンスが含まれている文章ですね」と言い返されそうです。しかし、そういう人が『恥』について考察しているので、大変ある意味自意識過剰であり、いや自意識過剰だからこそ、気付ける様々な『恥』の現れ方が、汲み取り方が、知れると思います。
大妻女子大学の校訓は『恥を知れ』で有名です。そしてこれは非常に重要な事だと思いますが、この校訓の意味としては『自らを戒めよ』と言う意味なんですけれど、それを『恥を知れ』と記するセンスとインパクトを感じます。
このsense of shameの感覚、かなり変わってきていると思いますし、酒井さんもその点も注視しています。まず、電車の中の化粧や他者がモノに見えている感覚は『恥』という感覚は他者の視線が必要だという事を気づかせてくれます。これが良い事なのか?はたまた悪い事なのか?はとりあえず置いておいて、それでもまだ『恥』の文化的な側面がかなりある、という指摘は面白いです。
そして、個人の感覚では『恥』の感覚すらなくなっていくと(なくなりつつあると、私も同意します)なると、これは危険なモラルハザードが起こっているような気がします。何しろ世間という法治とはまた違ったルールなので、世間は無くなって欲しいけれど、その代りが「コストパフォーマンス」だったり「合理性」だったり「拝金」だったりするのはかなりマズイと感じています。でも、そっちに進んでいると思いますね・・・
また、感謝にテレない世代というタイトルで扱われている指摘にも、驚愕しました。要約すると、母親が、大学生の息子の部活の最後に母親を抱擁→さらにお姫様抱っこ→記念写真撮影、というヨモスエな行事が認知されつつある、という事です。何と言いますか、日本はマザコンとロリコンの国だと思いますし、個人的にはマザコンの方が罪は深いと思うのです。何故ならマザコンは作られているから、生産されているから、です、母親に。割合、故意に。ココに非常に問題がありますし、当然逆のパターン、父親が娘を溺愛、というのもあるんでしょうけれど、スキンシップは無いと思います。本当に驚愕の事実ですね・・・子育てという労働の対価を求めるようになった、と酒井さんは分析されていますけれど、そもそも、子育ては労働では無いと思うのですけれど。自ら選択して行った行為の結果、今後20数年かけて続く正解がワカラナイ上に、取り返しのつかない行為や学びの連続の事を労働とは言わない気がしますけれど、労働に似たような部分がある事は認めます。でも無償の愛とか何処へ行ったのでしょうね・・・いやそんな無償の愛などというモノはもともとなかったのかも知れません。
また『愚妻』とか『豚児』といった過度の謙遜(過度かどうかは人によりますが、個人的には過度に感じます)を美徳としていたわけですから(しかし、夫や旦那をへりくだる言葉が見つから無いのが凄くいびつ・・・)。この文化をもう1度復古させるのであれば、完全な鎖国が必要でしょうね。そしてそんな事はテクノロジーの発展からすれば不可能な気がします、エントロピーは拡散していくわけですし。
酒井さんは割合セクシャルの方面にも思索を伸ばしていて、この辺は個人的にはほぼすべての部分が『恥』の概念に近い気がします。
そういう意味で言えば、そもそも他人同士の関係についてゴシップな扱いをするのか?が意味不明ですし、有名人の誰が誰と何をしようが関係ないと思います。この辺は私が興味が無さ凄るのかも知れませんけれど、ニュースになってしまうのが良く分かりません。
ついでに酒井さんが指摘していない部分で、私が考える恥ずかしい行為は、たくさん出席した結婚披露宴で、わざわざ招待した人の前で両親への手紙を読む、です。恥ずかしいから家で、家族だけで読んでおけばよいのでは?読まずに手紙にしているのだから手渡ししておけば、投函すればよいのでは?と毎回思います。もちろん演出だって言うのは理解出来ますけれど、そんなベタベタの演出、そして人前で泣く、涙を流す、という行為をわざわざ人に見られる、という双方ともに、恥ずかしいです。ええ、自分ではみんな、自分が普通だと考えていますし、私は少しソシオパス気味なのは理解していますけれど、とてつもなく違和感を覚えます。
「全てのエッセイは自慢話」かの有名な兼好法師のお言葉です。肝に銘じつつ、ブログも同じだよなと思う次第。気を付けつつ、基本的には未来の自分に向けて。
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