井の頭歯科

「適録 断腸亭日乗」を読みました

2011年3月31日 (木) 09:34

永井 荷風著          岩波文庫

このところ忙しかったので本の感想など書けなかったのですが、出来るだけ普段通りが望ましいと思いますので、気分転換に読んでいただけたら幸いです。何でも自粛してしまうのはいかがなものかと私個人は考えますので。基本的には自粛することは何も無いと思います。また、特にお花見は自粛する必要ないと私は考えますけれど、現東京都知事は自粛して欲しいみたいですね。何故花見を自粛するべきなのか、私には理解出来ませんが。

以前から気になっていた作家、永井 荷風。徹底的な個人主義者ですし、そこまでどうかな?という部分もあるにはありますが、それであっても面白い日記でした。

永井の大正6年(1917年)から昭和34年(1958年)までの日記です。最初の頃は恐らく、誰にも見せるつもりは無く書かれているように感じました。後半は誰かに読まれる可能性を感じつつ(軍部による調査を気にしていたようです)、朱を入れていたのですが、ある事からその行動を恥じ、感じたことを(軍部批判であったとしても)そのまま、後に読まれることも想定しつつ書き綴っています。正直、頑固ともいえますし、柔軟性に欠ける部分ももちろんあります、そして少し一方的に過ぎるきらいはあるにせよ、芯の通った人の姿とも言えます。冷徹な目を通したきな臭い世界情勢や、身近な生活の中の場面、文学者としてのあり方、そのうえ時事評論のような感想を織り交ぜつつ語られる荷風の心情の数々、読んでよかったと実感しております。

人嫌いかのような荷風の、それでも交友関係の中でもやはり重きを置くのは先輩の森鴎外であり、後輩の谷崎潤一郎や堀口大學なんですが、森鴎外について非常に高い評価をしていて、これは結構知らなかったので驚きました。今の私からすると既に森鴎外の書いた文章が読みにくいと感じさせる、「古典」とは言わないまでも現代文ではないようなこともあり、あまり読んだことが無い(学校で読んだ「舞姫」くらいか?記憶もおぼろげです)ので少し興味出ました。その鴎外先生が亡くなられるのが大正11年ですから、この日記が始まって僅か6年、しかし非常に尊敬していたことが窺えます。以来、年に1度くらいの頻度で墓参りをしていますし、空襲の後に移された三鷹(ご近所!)まで花を手向けに来ていたりします。

また、蛇蝎の如く嫌った菊池寛の逸話が非常に面白く、さすが文藝春秋社をつくり直木賞や芥川賞をニッパチと呼ばれる景気の悪くなる時期のテコ入れ目当てで文学賞を設立した、と思わせる、ある意味大衆迎合的な上手さを理解させてくれます。銀座のカッフェー『タイガ』での、女給の人気投票にその店のビール瓶を1票にしたコンテストでは自分の贔屓の女給を勝たせるためにビール瓶105本を買い与えて持っていく話しなど、たしかに、という話しです。もちろんかなり感情的になっているようにも見えますけれど。なんだか現代の話しと似てますね。

そして嫌いな物の多い人ですね、年賀状ひとつとっても意味が無かったり誇大であるものには容赦ない批判が浴びせられます。また、お墓に花を手向けるにも、そこに肩書きや氏名が入っていたりすると売名行為のように感じ取って不快感を示したり、漱石の妻が漱石が妻にだけ残した話しを文章で発表しては、不貞だと嘆きます。荷風にとって世界は不条理で、その場しのぎで、野暮に見えていたのであろうと思います。日本人、というものを全然信用出来なかった、その荷風の印象は、私にも少しだけ分かる様な気がします、震災後に水や食料の買占めなんかをされている、ごく少数の方々を見て、そんな気持ちにもなりました。

満州事変から太平洋戦争に至り、その末期の東京大空襲によって住処である『偏奇館』を焼き出され、蔵書すべてを失い、住むべき場所を失くし、数少ない友人である永井夫妻を頼り、中野、そして西日本の明石、最後は岡山にまでたどり着くその様が描かれる部分は急に文章が長く、そして生き物の様に動き回り、あの荷風の文体であって尚且つ臨場感を沸き立たせるのが素晴らしいです。焼け出されてから敗戦の報を知るまでの部分の日記は繊細であり、またあの荷風が心細く過程を描き出したものであり、そして被災するというルポタージュでもあって読ませます。苦労に苦労を重ねて何とか岡山まで逃げるまでの永井夫婦との、着の身着のままで放り出された心情を映し出しています。また、だからこそ、岡山で出会う(というか助けてもらう)谷崎夫妻に今までに無く暖かい目を向けています。よほど心細かったのではないか、と。

時に時事評のごとく添えられる目は、非常に冷静ですし、全てにおいて簡潔です。荷風にとっての事象についての感想は、言葉は少ないものの、簡潔にして人柄まで滲ませ、非常に面白いです。また、それにも増して日々の荷風の周りで起こる日常的出来事への感想が読ませます。軍部に対しての冷静な批判の的確さと、近所の知的障害児や社会的弱者に対しての憐みも、同列に扱われているのです。

1945年9月28日に差し込まれている『余は別に世のいはゆる愛国者といふ者にもあらず、また英米崇拝者にもあらず。惟虐げられる者を見て悲しむものなり。強者を抑へ弱者を救けたき心を禁ずること能ざるものたるに過ぎざるのみ。』はまさに荷風のスタイルを自己が語る珍しい一文だと思いますし、その通りだと思います。こういったスタイルをとり続けられたのはもちろん既に荷風が文学者として成功を収め、養う家族が居らず、そして兄弟の縁を切っていたから可能となったまさに個人主義者の極まりだとも言えます。そしてだからこその最後、なのでしょう。母親の臨終に生家を訪ねるくらいなら会わないし、孤独死なんて織り込み済みですが何か問題ありますか?くらいの感覚なんだと思います。こういう生き方が良いか悪いか、ではなく、ここまで突き詰めてしかも突き通す様は、良い悪いの判断を超えて、尊敬に値すると、私は感じました。

私個人がこの本を読んで感じた永井 荷風は、まともでまっとうな感覚の持ち主であり、しかしそれを大上段に構えて周囲に説き伏せるのではなくただ日記に書き付ける人嫌いの個人主義者であると同時に、非常にロマンチストであり、だからこそ、今ではなく過去にロマンを求め、しかも現実の女にもかなり振り回されているという人物であったような気がします。

昭和初期の東京銀座の、文壇の、日常の生活を垣間見て見たい方にオススメ致します。

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