井の頭歯科

「街とその不確かな壁」を読みました

2023年4月21日 (金) 09:49
村上春樹著   新潮社
凄く、久しぶりに村上春樹をわざわざ読もうと思ったのは、まず私にとっての彼の最高傑作は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」だからであり、その中に出てくる街の事を、新作のタイトルが指していると思えたからです。どう考えても、彼の著作を読んだ人なら、そう思うと思います。
また、そこまで熱心な読者ではなく、熱心だったのは高校から大学生くらい(今から30年くらい前・・・)で、まぁあり大抵に言って、文体にやられちゃってたからです、酔っぱらってるのと同じです、自己陶酔みたいなもので、自己憐憫とも言えるし、あまり人にそういう部分を見せるものじゃないと、いまなら思います。まぁ若かったんでしょう。
熱が冷めると、なんだ、という感じですが、酔っぱらってるので、その時は分からない状態になってるわけです。
また、ジョン・アーヴィングとの対談を何処かの雑誌でやってましたけれど、その当時も、アーヴィングが言う「読者にもっと読ませて欲しい」と思わせなければダメだという趣旨の発言に同意もしていたと思います。それとは別の何処かで、高橋源一郎は、ラストを決めてそこへ感動させるやり方を批判、というよりは下品という趣旨の発言をしていたのを覚えていますし、全く同感です。とは言え「ガープの世界」は好きなんですけれど。その後「未亡人の一年」という主要登場人物がほぼすべて作家、という作品を読んでからは、もう手を出す事はあるまい、と思いました。作家が作家とは何か?とか考えちゃうと袋小路に入っていく、とか言ってたのはスティーブン・キングだったような・・・
読む前は、レイモンド・カーヴァ―の作品のように、そしてそれに影響を受けている村上春樹作品のように、短編を基にした長編、というような事なのかな?と思いました。それを源一郎は、物語が新たな結末を求めている、というような事を言ってたけど、比較的最近(と言ってもけ10年以上前ですけど)カーヴァ―関連の本で、実は編集者にかなりカット編集されたものが短編で、それを快く思わなかったカーヴァ―が中編化したものが、後から出てくる、という事だったようです。でも、どっちが好きか?と言われると、確かに短編の方が出来が良く見えます。編集者って大切。
それでも、短編ではなく長編の書き換えってどういう事なのかと思えば、雑誌に掲載はしたけれど書籍化していない作品の長編化で、それが「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」になっているのですが、その雑誌掲載作品を基にした長編化です、と作者があとがきで語っています。
あとがきはあっても良いけど、作品について作者が何かを付け足すのはどうなんだろう、とは思います。無粋って奴ですし、そうご本人も書き記している。
でも、そういう事のようです。
で、本作と「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」は基になった作品は同じなわけです。なので、どうなのか?と思ったのですが・・・
基本作品のネタバレはしません、というか、村上春樹作品にネタバレも何もないんですけれど。
まず、好きな人には新たな未読の作品が出来たわけで、良かったですね!
読みやすくて、何処か不可思議で、この主人公は私だ!(もしくはこの作品を一番理解しているのは私だ)と思わせてくれるのはなかなか楽しいモノですし、それが自己陶酔でも自己憐憫でも、誰にも言わなければ読書体験は基本1人でするものですし、隠れてやってれば何も問題ない。
それに私だってそれなりに楽しんでは読みましたし。しかもこうやってここで文章化して出してるわけで自己顕示欲求があるのも事実。そういう自己憐憫とも言えるし、自己承認とも言える。
また、読まないで何となく村上春樹作品が嫌いな人は、こっちじゃなく「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んでみたら良いと思います、多分合わない人には全部読めないと思いますけれど。もちろん無理して読むべき作品なんて無いし、みんな好きな作品を読めばよい。でも批判は読んでからの方が良いと思います、確かに目に触るけれどね。扱いが大きすぎるし、文豪とは思わないけれど、息の長い作家活動をしているわけで、それもここまで他国に翻訳されている作家なので、こういうのが好きな人は世界にもたくさんいるんだと思います。そう言う意味でニュースになる同時代の作家ではある、好むと好まざるとに関わらず(←凄く村上春樹さんっぽく言ってみた)。
でも海外に翻訳させている作品の中には処女作「風の歌を聞け」(架空の作家を使ったスケッチ風の中編 とは言え、凄く新鮮な、消毒されたかのような、英文から翻訳しなおしたかのような文体が眩しく見えたのも事実)と続く「1973年のピンボール」は翻訳を許していないんですよね。そう言う所も凄く、障る感覚があります。これと似ているのはオーチャードホールの25周年ガラ公演 伝説の一夜 の総合監修をした熊川さんが、自分以外のダンサーの振付を全て、自分で行いながらも、自身の踊る作品の振付はローラン・プティの「アルルの女」にしたのと似ていると感じました、それと興行側から「伝説の一夜」って言うのはどういう感覚なんだろう、とは思う。
それに何かの全集だかの刊行に際して、編集者が勝手に「1973年のピンボール」をその中に入れたのは確かに悪いし、作者はどの作品を何処に載せるかの権限は持っているんですけれど、それでも、という一件は、凄く記憶に残ってる。そういう人なんですよね。
斉藤美奈子さんも言ってたけど、そもそもW村上って表現がおかしかったし、名字なんて本質に何も関係ないし、村上龍と村上春樹を比べても意味ないと思う、対談本も出してますけれどね、この2人。
ここ最近の作品は読んでないけれど、ええ、みんなが知ってる、いつもの村上春樹作品世界です。
ですが、私はなんでこの作品を書いたんだろう?が全然納得出来ませんでした。
明らかに「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」の方が作品として、レベルが高いし、読ませるし、ある種の自己否定の二重性みたいな事を扱ってて、伏線も良いと思いますし、表記も良いです。レベルが下がって感じましたし、なんか、無駄に、本当に無駄に長い・・・
ある意味今までもそうなんですけれど、主人公にとって都合の良い人間しか出てこない・・・それは同じなんだけれど、今回はさらに、主人公の為に作られた、都合の良い人間が複数出てきて、なんだかなぁ、と思います。本当にどうしちゃったんだろう。
編集者は何かもう少し、意見を出せなかったんだろうか?
今度こそ、もういいや、となってしまった。

多分、自分の為に出したんだよね・・・あとがきでもそう感じる。

 

アテンションプリーズ!

あまり、どうかな、とも思いますが、自分の記録の為に、一応残しておこうと思って。ここからは割合ネタバレを含むので、未読の方はご遠慮ください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

で、ネタバレありの感想としては・・・

あとがき、で凄く言い訳めいてホルヘ・ルイス・ボルヘスを引用して『1人の作家が一生のうちに真摯に語る事が出来る物語は、基本的に数が限られている。我々はその限られたモチーフを、手を変え品を変え、様々な形に置き換えていくだけなのだ』とおっしゃっています。
うん、ガルシア・マルケスの「コレラの時代の愛」を引用している訳ですし、今までの作品群もそうであったように、ファンタジックな部分を、ファンタジーではなく、あなた(読者)にとっても精神世界のリアルな(意味が反しているのは理解していますが)世界として、マジックリアリズムというジャンルだと思ってね、忖度してね、と言われているように感じる。
もし本当に、マジックリアリズム的に読んで欲しいのであれば、小説というスタイルの文章の中で、マジックリアリズムとは表記しないで、そう読ませて欲しいし、それが小説家の仕事のような気がするし、初期作品では出来てた気もするんですよね、ある種の村上春樹ワールドとして。でも今作でそれが成立しているかどうか?凄く微妙・・・
モチーフも、凄く勝手に、これまでの作品を読んできた読者なら、想像出来る。逆に言うと想像出来なかった、つまり新たなキャラクターたちが全然魅力的じゃない上に、主人公にとって物凄くご都合主義的なキャラクターになってしまってて、醒める。
主人公はいつもの通り名無しの、読者の誰もが自分だと思い込みやすく出来てるいつもの主人公ですし、16歳の少女は精神的な問題の抱え方や純粋に歩くの含めてノルウェイの直子でしょうし、コーヒーショップの店員の新婚旅行については回転木馬のデッドヒートの嘔吐のモチーフでしょうし、真四角の部屋は多分井戸の底なんでしょうし、とか細々とそういうのがたくさんあるから、ある種補完出来るのは強みでもあるんでしょうけれど、逆に、唐突なキャラクター(とは言え知らない作品もかなりあるから個人的な印象の話しですけれど)子易、イエロー・サブマリンの少年という非常に飲み込みにくいキャラクターの違和感が強い。
自分の名前すら表記がされないのに、子易さん、図書館の添田さんは名字の表記があるのに、イエロー・サブマリンの少年はM※※表記って、まぁ何かしらの意味はあるのかも知れないけれど、全然汲み取れないし、今作はそのような、汲み取れない事、が多いと感じる読者からすると、その汲み取れない事についてはどちらが本体かワカラナイし入れ替わる事もあるし確定しない事を『忖度』してくれ、これが私の考える物語であり、そう言うモノだと受け入れてくれ、というメッセージがそこかしこにあって、凄く、都合がいい。この辺がこの作品であり村上春樹作品の弱点でもあると思います。
それに言いたかないですけれど、物語の結末やカタストロフィと言う意味で今作は何も決着しないし、自分から何か?犠牲になったわけでもなく、周囲の人が様々に助けてくれるわけです。本当に困ってても、夢が助けてくれる・・・でも、16歳の少女に何が起こったのか?全然分からないし、決着はつかないし、16歳の女の子が街を作り上げ、そこに自分も加担しているのに、その責任を負っていない上、さらなる他者であるイエローサブマリンの少年(なげぇ、名前があれば・・・)に責任を被せているし、出てくるのであれば、こんなに重要な役目で出てくるなら、2章の頭の方でももう少し含みを持たせて登場させておかないと唐突過ぎないか?とか、子易さんだけ魂的に幽霊になれる理由は?とか都合よく消滅しちゃうのはどうして?とか墓参りってそういうキャラクター今までいたっけ?そんな事するようなキャラクターに違和感すら感じましたし、突然いなくなってしまった女性を想うのはいいとして、40歳までいくと、ちょっと純粋性じゃなく執着な感じがしてしまったり、と今作は全然乗れない上にとにかく無駄に長いと感じました・・・
でも今に始まった事じゃなく、初期作品の中に出てくる、フォルクスワーゲンのラジエーターをうんぬん、という表記があって、現実世界ではフォルクスワーゲンにはラジエーターは無い、という読者からの指摘を受けて、作者は、この小説の中ではラジエーターがあると思ってください、そういう小説内世界だと思ってください、という弁明をしていたのと同じだと思う。
それに、表記を変えてなんとか新しくしようとしているのに、逆に分かりにくくなってる箇所も多くて、一角獣が単角獣というぼやけた表記になり、門番は門衛となり抽象性が増しているようですし、退役老人は大佐の方が想像しやすいし、割合難しいキャラクターであった発電所の男は存在を消され、壁を超える鳥という存在もなくなり、ギミック的にも下がってるという他ない。
子易さん、主人公にあまりに都合の良いキャラクターで、それはイエロー・サブマリンの人も同じなんですけれど、それでも、もう少しそのキャラクターの説得力みたいなものがあったと思います、五反田くんだって、羊男だってもう少し深みがあった。それが衒いなく、主人公にとっての救いを与えてくれるキャラクターでしかないのは興醒めというか、劣化というか、老化。
明らかにレベルが下がった作品を、今どうして出すのかなぁ、編集者は仕事してたのかなぁ、大御所になると編集さんも意見が言えなくなるでしょうし、出版不況も極まれりという時代に名前だけでも売れる作家の新作となると『忖度』があったのかなぁ。
個人的には、老いた、そして老いを認められなくなったのだろうな、という読後感でいっぱいです。作家は長生きして良作を出す人もいるけれど、そうでもない作家もいるでしょうし。

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