高橋 昌一郎著 講談社現代新書
「理性の限界」の続きものです。今回も前回と同じようにディスカッション形式というか戯曲形式で話しが進みます。もちろん前の話しを引き継いだものではありますが、この本からでも読めるように、プロローグにあたる部分は前回のディスカッションの打ち上げの最中、というところから話しが始まります。
で、今回ももちろん面白いのですが、どちらかというと定理や理性、あるいは哲学的な問いよりも、その考え方を打ち出した偉人の足跡を考え方と共に辿る、というスタイルです。
最初は「言語の限界」を主題に置きながら、ウィトゲンシュタインの足跡を辿ります。論理実証主義者の言う前期ウィトゲンシュタインの言語に対する感覚は、確かに的を得ていると私も感じます。人は言語でコミュニケートする以上、言語に対してもっと定義づけ出来た方が良いのは間違いないですが、独りよがりな部分も多いのです。が、それでも尚、ウィトゲンシュタインが突きつけた言語に対する真摯な姿勢は必要不可欠であると私も感じました。この言語理解とその限界についての考察を後期ウィトゲンシュタインに絡めて理解させるのは面白かったです。大富豪の息子であって4人いる兄の内3人が自殺してしまうという経験をする人物、確かに興味沸きます。そしてサイエンス・ウォーズなるソーカル事件の意味は非常に大きな問題を孕んでいます。悪質なやり方ではありますが、これほどショッキングで人目を惹くやり方も無かったでしょう。ソーカル事件についてはもう少し調べてみたいです。
続いて「予測の限界」を主題に置いて、ポパーの足跡を辿ります。帰納法は科学的か?という疑問は確かに納得の展開ですし、科学と疑似科学との違いをかなり明確に分け、反証の重要性を説いたポパーの説得力は圧倒的です。ポパーの言う「批判的合理社会」には強く惹かれるものがあります。しかし、この独断を排除するために反証主義を強いることが独断である、というパラドックスに陥るのも、面白い話しであると思います。そしてウィトゲンシュタインとポパーの論争も世紀の対決、という感じです。さらに予測問題を考える上での自由意志と宿命論の成り立ちも哲学的な面白さがあると感じました。
最後が「思考の限界」を主題にしたファイヤアーベントの足跡を辿ります。このファイヤアーベントなる人物の凄さはちょっと驚異的です。かなりのアナーキストとも言えると思いますが、その軸が非常にしっかりしていてしかも突き詰め方が徹底しています。何を基準にしても構わない、まさに「何でも構わない」上で私たち個人個人が何を選ぶのか?に基準がある、という考え方、凄いです。科学を否定するものではなく、また西洋文化を否定するものでもない、しかし、同じように疑似科学だろうと、経験主義だろうと、占いだろうと、その基準は何であってもかまわない、どれも同じように完全なるものではない、ということです。そうすることで話しは形而上学にまで及びます。
この3つの議論を終えた後に、何故かカント主義者が活躍します、いつも相手にされないイタイ感じのカント主義者に光が当たって個人的には良かったです、気になってました。純粋理性を推し進めた不可知論者が信仰の対象としての(合目的性のために)神の存在を受け入れる話しも興味深かったです。また、パスカルの損得勘定での信仰を持つというのも可笑しかったです、信仰に対しての動機は問われないものなのでしょうか?
そして最後の最後、あの、悲観主義者ショーペンハウエルの後継者であるハルトマンのさらなる悲観論の結末におけるオプティミストぶりと、ファイヤアーベントの「理性」に対する言葉の悲観主義を乗り越えたオプティミストぶりが交差するラストも、凄く良かったです。
知性の、そして理性の知らなかった世界と知らなかった人の面白い話しに興味のある方、科学史に興味のある方にオススメ致します。
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