アラン著 神谷 幹夫訳 岩波文庫
友人が震災後にオススメしてくれたものです。示唆に富んだプロポ、と呼ばれる哲学断章を集めた幸福論、というよりも私は感情論、情念論、身体論として読みました。あるいは心構えといえるような何かについての断章です。
著者アランは非常に強く言い切る形で、気分という感情を、情念を、そこから自由になる極意を教えてくれます。曰く、幸福や不幸の理由が問題なのではなく、身体が問題なのだと。幸福や不幸の理由は様々であって悲しいときは悲しい理由を、嬉しい時は嬉しい理由を見つけることはたやすい、と言うのです。
アランの言う「不機嫌な人々」というのは、確かにいます。そして恐らくどんな人であっても気分の塞ぐことはあるでしょうけれど、アランはその理由に拘泥するのを止めてもっと礼儀正しく、身体が心地よい状態にすることに心がけるべきである、と言います。そうすることで感情に、情念に支配されることから脱することが出来ると言うのです。
もっと言えば幸福になったから人は笑うのではなく、笑うからこそ幸福になるという逆説的な考え方、私は考えたことが無かったです。ちょっとコロンブスの卵的な発想の逆転のように感じました。
この「不機嫌な人々」というのは、不機嫌な感情に支配されてしまっている人のことです。いつまでも悲しみに囚われてしまっていると、そこから抜け出すの難しくなると私も思います。そして、そんな方にこのアランの言う身体論は確かに効果があると思います。身体を動かすことで、身体を心地よい感じさせることで感情も変わるという部分、大きいですよね。悲しみに埋没してしまっている場合には特に効果的な方法だと思いますし、視点を変える素晴らしさ、またそれを指摘する際の心配り(そこにズラす視点と笑わせる感覚があります!)と、(一見矛盾するようですが)強く言い切ってくれる安心感が、この文章を美しく魅せてくれているのだと思います。
身体と、そして感情、情念についての論です、もしくは物事の考え方の柔軟性を求める本、もしかすると文系な考え方の一端を感じさせるとも思いました。
非常に高貴な、そして潔く強靭な精神の持ち主の思考について知りたい方にオススメ致します。
ただ、不機嫌であることが人に伝染する、という主旨の発言は少し気になりました。上機嫌で、如何なる時も上機嫌でいることの重要性を表明しているアランが、不機嫌は人に移るというのは、まさに他人の感情に自身の感情が干渉を受けることを認める発言で、この部分は矛盾していると感じます。他人の不機嫌こそ、最も関係なく上機嫌であり続けることをアランは説かなければいけないのではないか、と思うのです。他人の不機嫌を、不条理を、偶然の破局に感情を支配されないように、情念から脱することを説くアランが、他人の不機嫌を変えようとするのはおかしいと私は考えます。
解説でも書かれていますが、「アランのオプティミスムにカタストロフィは存在しない」そして「アランの思惟は即興である」と。この2つの言葉は端的にアランのこの「幸福論」を短い言葉で捉えたものであると思います。カタストロフィさえも包み込める強靭な精神力を、即興であって出来ることのいかに難しいかを、強く感じました。だからこそ、この本が読まれ続けるのであろうとも思います。
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