藤野和明監督 TOHOOFilm ポレポレ東中野
2024年公開映画/2024年に観た映画 目標 36/100です。 現在は53/133
映画の存在を知ったのは昨年末のBLACKHOLEでの柳下毅一郎さんの2023年のベスト映画だったからです。短い時間でのご紹介でしたし、見る方法が無かったので、記憶に留めていたのですが、劇場公開されると聞いて。ところが、東京でもわずか2館ですし、予約フォームをみても平日の昼の回でもずっと満席。公開から2週間後の平日にやっとチケット取れました。
2024年に観た中での1番の衝撃作でした。
藤野監督の、恐らく最も衝撃的な作品。というかどんな人にも人生で1本しか撮れない作品。これを撮ってしまった後の藤野監督の今後が、期待もありますけれど心配でもあります。
ドキュメンタリー作品です。冒頭に、統合失調症について扱った作品でもあるためにその注意喚起が為されます。さらに、犯人を捜す主旨では無い事も示されます・・・医師で研究者の父、同じく研究者の母、8歳年上で医師を目指した姉、そして監督の4人家族の20年を超える期間の記録映像です。
私は家族という存在の、良い事、善き事はある程度理解していますし私という存在は私の家族が居なければ存在しなかったと言えるのですが、それと同時に、強固な鎖であり、檻でもあり、澱が溜まる場所だとも言えます。私は私の経験でしか知る事が出来ない家族の時間があり、それは誰にでも人の数だけ存在するのに、他者の家族の時間を見る事は、まず、あり得ません。他者は家族では無いからです。そしておそらく同じ家族というのはあり得ないし、他者の家族にはその家族だけしか分かり得ないルールや宇宙がある。
この作品には他者の家族の記録が映っていて、それが非常に日常を捉えているので、それだけでも衝撃的なのですが、姉の精神、病気というか、状態にも驚かされます。
そして、それ以上に時間が目に見えるのです。その時間の経過の残酷さ、いや、時間が経過しても変わらないという残酷さを目にする事になります、文字通り、時間が見えるのです。時が見えるんです。
家族という形を必死に守って継続させる事への執着、ここに家父長制という言葉だけでは括れない、医師というだけでは理解出来ない役割のようなモノを信じ、演じている家族が見えます。
その中で1人観察者でもあり、家族の一員でもある監督がカメラを置く事で、記録される映像が映し出す世界の恐ろしさを感じました。
そして同時に姉の状況、そしてその後の驚愕。
パンフレットで書かれていますけれど、精神障害、という単語への違和感、理解出来ます。心や精神というものが如何になにもまだ分かってないのか?を理解します。
手塚治虫も「奇子」で描いていましたし、藤子・F・不二雄が描いた「ノスタル爺」でも描かれていた軟禁。それの形を変えた状態。
さらに共依存という解決し難い鎖の存在。ここに認知の問題さえ繋がってくる恐ろしさ。
日本の全ての人が関係ある話しなので、観るべき作品。
見終わると、本当に、どうすればよかったか?と考えさせられます。その答えは何処にもなく、今も分からないし考え続けてしまいます。
日本で生活する人にオススメします。
アテンション・プリーズ!
ここからはネタバレありの感想ですが、批判とか断罪ではなく、あくまで私見です。
まずはこの衝撃の作品を観て欲しいです。
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まずそれぞれの関係性。
父から見た娘、それも非常に出来が良く頭も良かった娘、そして共同研究を論文発表したい、という恐らくは父の夢。この事を叶える為だけではないにしろ、最初の異常行動の時の診察が、どうであったのか?ココが1番のポイントであったと思います。父からの強制的で強い医師になって研究して私の後を継げ、というプレッシャーの強さを垣間見せる単身赴任地への手紙でその日の勉強の成果を報告させるエピソード、それは強迫観念を感じてもオカシクナイですし、その後に統合失調症の様な振る舞いを見せる事で勉強や研究を嫌がっている事を示しているという父親の解釈の、何というか視野狭窄で自分の考えに死角は存在しない、と考えているような・・・
そして母。母と父の関係は恐らくそれなりに強権的なのではないか?と思われます。父のプライド尊厳を守る事に注力しているように見えますし、娘に対しての共依存もあるように見えます。そこに認知症が加わり、いやだからこそ、父も家族をコントロールできない事を悟ったからこそ、姉は診察を受ける事が出来たという皮肉・・・
この、母の認知症の症状、そして姉の状況が重なった時の、まるで家族が病に罹患して、それが広がっていく恐怖を感じました。科学的にも医学的にもそんな事は無い、と知っていても(言葉の強さがあって使いたくないのですが他の表現が見つからず)狂気の伝染、に見えたのです。それも共依存関係を利用しての伝播のように見えたのです。
恐らくこの3名と比べて出来の悪い(と言っていても、監督も北大出身者・・・国立大学ですよ!!!私なんか以下略)事に疎外感を抱いていたであろう弟である監督。家を出た、帰省する時でしか存在しない、希薄ではあるが一員でもあります。姉をどうにかしようとする事が出来そうなのは監督だけだったと思います。
20年以上の症状の経過があった後でも、たった、たった3か月で合う薬が見つかり自宅に帰る事が出来るようになる事の、それまでの無為とは言わないまでの積み重なった、顔や髪や体のラインで見える時間の経過、その重みを感じずにはいられません。3か月ですよ!あの姉、写真の中で美しく、若く、希望に溢れ、同時にダメになる可能性や傷つき倒れる可能性も等しく存在していたまだ未成熟であった人物の、その可能性が失われた、いや奪われている様にしか見えない、その残酷さ。
たった3か月で帰宅できるほどの回復があっても、その後の安定しない時の行動についても考えさせられます・・・会話ができるようになっていてさえ。そして同窓会に出たかったという吐露。ただ人に会うというだけさえも満足に出来ない状況の哀しみ。姉の自分の置かれた状況への認識がどうであったのか?語られる事は無いのですが、映画「レナードの朝」のような認識では無かったのであれば、それはある種の幸せだったのかも知れません。それにステージⅣの癌が見つかる事の辛さ・・・
それなのに、姉の、あのピースサインの多幸感。何というか生きて動いていつか死んでしまう動物の重みを感じさせるピースサイン。特に片足を浮かせて後ろにそり上げつつその足の膝を曲げて繰り出されるピースサインの、この映像作品の示す状況とのあまりの違いに、この映画の救いがあるとも感じます。
この家族のある種の愛のカタチの可能性も不貞出来ない・・・もちろん姉の不遇は許されるべきではないと思うのですが、ではそこに体裁や世間体だけなのか?とは思えない部分も感じられます・・・いびつかも知れませんけれど。
医師国家試験の参考書を毎年購入していたという父。家族内では、カメラの回っている中では強権的には見えないのですけれど、ラスト近くで監督に問われる「どうすればよかったか?」への驚愕の返答も、ホモサピエンスの認知に歪みを感じずにはいられません。
父親になった事が無い私には永久に理解出来ないかも知れない感情がなにかあったのか、医師と父の威厳を守る為だったとは思えないけれど、あの家で20年以上暮らしていた事を考えると正常な感覚に思えない父。
父を庇い敬い庇護の中で娘との共依存に見えるくらい保護しているのに認知症というホモサピエンスの寿命が延びた事で現れた症状と似て感じさせる母。
とても衝撃度の高い映画体験でした。
これからBLACKHOLEの「どうすればよかったのか?」の配信見ようと思います。
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