高橋 昌一郎著 ちくま新書
「理性の限界」の高橋先生の著作なので大変楽しみにしておりましたし、とても面白く読みました。しかし、タイトルにはちょっと問題があるのではないか?というのが正直なところです。東大生の理論を表した本ではなく、結果として、東大生の傾向が分かった、というのが正確なのではないか?と思います。高橋先生が東大で講義をしないか?と誘われ、論理学の講義を行ったことで分かった傾向のようなものをまとめたエッセイです。
論理学、と聞くとなかなかよく分からないことがたくさんありますし、なんだか難しい話しのような気が致しますが、決して難しくなく読ませます。特に私はこの本を読む前に高橋先生の著作の「理性の限界」講談社現代新書、「哲学ディベート」NHKブックスを読んでいたのも理解しやすかったのだと思います。「理性の限界」や「哲学ディベート」で扱った答えのない、立場や指針によって変わる一致し得ない問題について講義を行い、ディスカッションを行う(あのサンデルの講義のように!)ことによって高橋先生が感じたことを、講義に沿い、論理学を学びながら、先生の東大生に関する感触と主観での感想が読める様になっています。なので、高橋先生の講義を受けるような感覚に陥りますし、そこが凄く楽しいです。「哲学ディベート」では文学部Aさん、法学部Bさん、などといった感じの語り手が、実際の学生(しかも東大生)になっている為余計に臨場感は増しますし、想像もしなかった角度からの追求が面白いです。
東大生というカテゴライズが果たして面白いのか?という疑問は確かに感じますし、だからこそ、この本を手に取るのに少し時間がかかったのですが、東大生に限った話しではないとも言える内容で個人的には面白かったです。特に私は理系専門学部であったので、単位を取るのに選択科目がある、ということそのものが面白く、シラバスという講義内容の説明を読んで、さらに先輩方がどの講義が単位が取りやすく、試験が簡単か?などガイダンスめいたサイトまであることの事実を知らなかったので、余計に面白かったです。
論理学で示される「イエスかイエスでないかのどちらかである」と「ノーかノーでないかのどちらかである」という真理は認められるが、「イエスかノーかどちらかである」という単純な2分法は存在しないことは、やはり何度読んでも目を開かされます。つまり「イエスでもノーでもある」という状態と「イエスでもノーでもない」状態を意識させない、いわゆる「詐欺の理論」であるというのは、理解していてもすぐには出てこない場合もありえますし、普段から考え方の1つとして取り入れていきたいです。
また、講義の中で東大生にはお互いに話し合いはさせずに、一万円か千円のどちらかを選ばせ、一万円と書いた人数が全体の20%以内であれば書いてある金額をすべての学生に払う、ただし、一万円と書いた人数が20%を超えた場合はプレゼントはナシという挑戦もしたり(これも立派な論理学に関連します!「ナッシュ均衡」という不思議なある比率に関するものです)とても面白い講義です!私もできれば参加したかったです、東大生と一緒には無理でしょうけれど、やはり大学で勉強する、というのは面白いことなんでしょうね。職業的、あるいは生活の糧を持った上での、あるいは余生を送る状況での大学生活ってかなり惹かれます。
もちろん、他にも6次関連で世界のすべての人と繋がれるというスモール・ワールド仮説(以前に読んだ「複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線」マーク・ブキャナン著ですね!)の話しも出てきますし、進学振り分けという特殊な環境に最しての功利主義(サンデル教授でも出てきたジェレミー・ベンサムの話し)の話しも割り切ることの出来ない話しとして面白いですし、そこから自力で最大多数の最小不幸というロールズの未知のベール的な概念が出てくるのも凄かったです、さすが東大生、というか頭の回転が早くて独創的!しかもアロウの不完全性定理から個人の合理性の否定に繋がる話しもびっくりでしたし、ホントにさすがです。
でもそんな東大生ばかりでなく、高橋先生に「宗教的問題」を相談に来る東大生の、実は「宗教的問題」でもなんでもないただの色恋の話しの相談も、非常にリアルで、しかしちょっと周りの見えない状況が面白くも納得してしまいました。やはり、東大生であろうとも、色恋における客観性の欠如はあるんですね。
論理学に興味のある方に、一連の高橋先生の本を読まれた方に、思考的訓練が好きな方にオススメ致します。
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