井の頭歯科

「走ることについて語るときに僕の語ること」を読みました

2010年7月23日 (金) 18:56

村上 春樹著           文春文庫

久し振りに読んだ村上さん、今回は何故か?走ることに関連した自分史を語ってくれます。相変わらず読みやすい文章です。

いかにして村上さんが走るようになったのか?また、走る時にどんなことを考えているのか?など、村上さんに興味のある方には面白い内容になっていますが、私も1度はハマリマシタが最近はあまり読んでいない私にも、目新しい情報や考え方はなく、いつもどおりの自己完結性の高い思考回路、通過儀式としては重要と思いますが、留まり続けるのには少し抵抗感もあります。

また、「海辺のカフカ」辺りからでしょうか?どうもコミットメントすることを求めた世界に成り代わっていて、その求める対象があまりに広がってゆくのが、私は多少の違和感を感じます。どうしても私には、村上さんの面白さをどこの誰でも「この主人公は私だ」と思わせる無名性の作家であったからこその物語への吸引力の強さが特筆すべきものであったと思うので。だからこそ自律する主人公が巻き込まれる話し、というワンパターンであっても読ませるチカラがあるのだと(もちろん私にとって、ですが)思うのです。それが段々3人称を扱うことでミニマムな個人の視点が引っ込んで大きな世界を捉えるようになって来ました。それはそれで良いのかもしれませんが、そうするといわゆる「あちらとこちらの世界」に分けられたファンタジーの部分を世界に対しても通用させなければいけなくなり、同時性とか、共有が必要になってきます。が、個人の場合であれば、それこそ「妄想」や「クオリア」のように捉え、現実でなくとも、本人には現実でしかない、というスタンスが取れてリアルであるのに、それを誰かと共有したり、同時性を持たせるのは、まさにファンタジーでしかなくなると思います。ならばリアルとは何か?という問題に突き当たり、何処かで書いておられましたが「パン屋のリアルは小麦粉の中にあるのではなくパンの中にある」というような主旨から離れたのだと思うのです。そして私は残念ながら、その世界に乗れないのです。そうするとどうしても物語の勢いに対して批判性をいちいち感じながら読むことになってしまいますので、面白くないのではないかと思います。その辺まで含めて通過儀式のような世界であったからこそ面白いのだと思います、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を頂点として(しかし、それも私が出会って読んだ時期が彼の初期の頃だったことに尽きる、ノスタルジーの問題なのかもしれませんし、私に進歩が無いだけなのかも知れません。)。

そして、いや、だからこそ、村上さんが自作に対しての心情の吐露を含む自分史のような今回のエッセイは何処に向かっているのか?が分かりにくいです。読者に「走る事は素晴らしい」というような共感を求めるものではない、と自身で明かされていますし。その辺の自身の置き所に対してのスタンスの居心地は、大変失礼ながら、村上さんの文章を金井美恵子さんが的確に批評した一文(「目白雑録3」より引用 『いつもの弱い立場にいる自分に読者の共感が集まるようなタッチの文章』)に、村上さんの本の読者でもありながら頷けてしまいます。

とは言いつつも、自作についての考え、アメリカでの生活、走りながら聞いている音楽のこと、走ることを通して得られたものについても、詳しく語られています。ある意味珍しいことだとも思います。

村上さんの考え方、それでも1度は考えてみるべき事柄に満ちています。そんな村上 春樹さんに興味のある方にオススメいたします。

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