J・D・サリンジャー著 野崎 孝訳 新潮文庫
中村 うさぎさんと佐藤 優さんがお2人共にオススメしていた本、私はサリンジャーはどうしても「キャッチャー」の印象が強くて、1人称の青春ものを想像していたのですが、非常に緻密な構成でびっくりしました。もっとも「キャッチャー」を読んだのも高校生くらいだったのであくまで印象の話しですけれど。もしかすると今読むとかなり変わった印象を持つのかも知れません、というくらいサリンジャーの上手さを感じました。
フラニーという短編とゾーイーとう短編の2つで出来上がっている短篇集なんですが、グラース家という家族の物語でもあります。グラース家の末の妹であるフラニーの身に起こった僅か数時間の出来事と、その数日後にフラニーと過ごした兄であるゾーイーとの数時間を描いた連作短編です。
グラース家は長男で家族の精神的支柱であるシーモア、小説家のテディ、長女のブーブー、双子のウォルトとウェーカー、役者のゾーイー、そして末娘のフラニーです。この小説の設定は1955年の11月、この時フラニーは大学生、ゾーイーは5歳年上で役者として生活しています。
秋が深まる中、同じく大学生のレーンは駅のホームでガールフレンドのフラニーが来るのを待っています。寒い中ホームに立つレーンが取り出したフラニーからの手紙つ綴られている言葉をもう1度目で追ってから、再会するレーンとフラニー。週末を楽しく過ごそうとする2人の会話のトーンが徐々に変わっていくのですが・・・という冒頭の「フラニー」。
ずいぶん以前に綴られた次兄であるテディから来た手紙をバスルームで読み返すゾーイーと、「フラニー」で語られた話しの後に実家に帰ってきたフラニーとの短くも非常に深く様々な事柄を扱った会話と描写を見せる「ゾーイー」という連作短編です。
少しネタバレも含んでいます、なので未読の方は出来ればご遠慮いただきたいですが、仮に結末を知っていたとしても決して作品の鑑賞の妨げにはならない緻密さがあると思います。しかし、出来ればまっさらな状態で先入観なく楽しみたい、という方は注意してください。
レーンというちょっとお高く止まったいけ好かない感じの、知識をひけらかし、またひけらかしている、という自覚のない鼻持ちならなさを非常に上手く描いているんですが、その描き方からして非常にヒロガリある、想像を遊ばせる余地を心地良く残したやり方で、個人的に気に入りました。情景を描き、その上でレーンの佇まい、あるいはホームでの同級生とのたわいない会話や、服装などから既にレーンという青年の独りよがりさのようなものを醸し出し、フラニーとの関係性を上手く理解させられます。フラニーのなんとか2人の間の空気を軽やかなものにしようという意識もあるものの、とある本を読み、兄であり、グラース兄弟の上に死して尚存在するシーモアの支配(というと言いすぎなんでしょうけれど、あくまで自主性を考慮したゆるい支配)からくる鋭い考察で「見えてしまう」レーンの底の浅さに苛立ちを感じ、抑えることのできない憔悴感を吐き出してしまうことで、レーンを通して実は同じように(レベルは違えど死んでしまったシーモアの聡明さや、言われるまでもなく神という絶対的存在から見れば所詮は同じような存在である)自分に向かっての態度なのだということに気が付き言葉をなくしていくフラニー。その過程を情景でも、服装や場面でも、そして描写でも見せてクレッシェンドで切る構成は、短編として素晴らしい余韻を生んでいると思います。
そして問題提起をし、その回答とも言うべき短編「ゾーイー」で見事な結末を生む伏線の数々もまた素晴らしかったです。特に「フラニー」のヒロガリと対照的に「ゾーイー」での緻密な伏線の貼り方、回収の仕方には練られた構成を感じました。もちろんキリスト教的解釈の全てを理解出来ているとも言えませんし、差し込まれる様々な賢者の言葉そのものの文脈的なものは知らないものも多く、十全たる理解があるとは言えませんが、その見せ方や賢者の言葉の数々の力強さが、説得力あります。また、テディの手紙を読むシーンから母親であるベシーとの会話に至る中での様々な伏線を貼ると同時にグラース家の歴史と関係性を描くやり方が好きです。そして1度はフラニーの説得に失敗し、シーモアとテディの部屋へと入るゾーイーの行為が良かったです。最後の何か常識が覆されるようなカタルシスも素晴らしかったと思います、汎神論を見せる懐の深さの強さがあったと思います。
サリンジャーは「キャッチャー」しか読んだことがない、という人に、オススメ致します。
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