中野 剛志著 幻戯書房
とあるニュースで中野先生の意見を初めて聴いた時に気になった、非常に切れ味鋭い思考の持ち主、という印象があったので興味が沸き、著作を読んでみようと思ったところ、何度か挫折したあの小林 秀雄の「考えるヒント」を使って考える、というものを図書館の検索で発見!早速読んでみました。
小林さん、非常に有名な批評家ですし、以前友人が勧めてくれたことがあったので勇んで読みましたが全然歯が立たないくらい難解でした。簡単に言うと『肌に合わない』感が強かったんです。内容が理解できないと判断さえ出来ないので、結局小林 秀雄で最後まで読めたのは数学者岡 潔との共著の対談本「人間の建設」(の感想はこちら)くらいです。しかもこの対談にも『肌の合わない』感を感じていました。それは考え方の根本から全く違った手法だということです。
小林 秀雄の「考えるヒント」を通じて、著者の中野さんの体験も踏まえながら、『考えるとどういうことか?』に迫る、非常に面白い本でした。中野さんは学問として政治を扱う方であり、英国に長期留学することによって異国から日本を感じることになり、そこで読んだ「考えるヒント」から様々な示唆を得て考えることが深まった、とおっしゃっています。いかに、自分の頭で、実体験に、生活に裏打ちされた自身の経験と直感からくる自分の内部の声に耳をすまして「考える」ことが出来るか?を思い知らされたと言います。そのことを強く意識し、「天地の間に、己れ一人生きて有ると思」う気概溢れる人になれるか?ということこそ学問を収めることにつながっている、と繰り返されます。
中野さんは、その気概を相対主義者を批判する言葉として表していて、非常に面白かったです。思い切って要約しますと、個人的に「考え」て至った「天地の間に、己れ一人生きて有ると思」うことを傲慢とみなし「もっと謙虚になれ」などとという奴に限って、自分より知識のあるものには「知識の量ではなく実行や具体策の提言が重要なのだ」などと宣う輩だ、と。このくだりは非常に笑いながら同意しました。さらに学会についての発表の例えも面白かったです、自分の研究結果は昨晩のジャイアンツの試合について書かれたものであるのに対して、何故あなたはイチロー選手を扱わなかったのか?とか、阪神の金本に対してどう考えているのか?や、原監督の高校時代の研究を踏まえるべきではないのか?といった質疑応答がかかる、というのはものすごく面白かったです、笑い事ではないのでしょうけれど、確かにこれこそ日本的な感じが致します。
デイビット・ヒュームを研究した中野さんの、コモンセンス(理性さえを懐疑的に捉え、近代合理主義を批判し、日常生活の経験というコモンセンスを唯一の確かなものとし、生きる、という実体験をすべての基盤とすること)に対する例は素晴らしく納得できるものであり、以前読んだ「国家の品格」(藤原 正彦著)にも出てくる合理主義批判の手法であり、映画「マトリックス」のリアルとは何か?という認識の不確かさの例も納得です。だからこそコモライフやコモンセンスが重要なのであり、「この世は正しいも間違っているもない」などと訳知り顔の相対主義者を軽蔑しています。
実は私が『肌に合わない』という感触は、そういった相対主義こそ、私の考える客観性であり、最も重要な事柄のひとつであり、リテラシーの担保の手段であると考えているからだと思います。全く同意出来るのに、結果は180度くらい違ってしまうことにびっくりしました。いかなる理論も、それを証明するために論拠となるα理論が必要であり、そのα理論もまた別のβ理論に論拠があり、またβ理論の論拠は・・・とやっていくと、確かに世の中の全ては不確実であり、仮説でしかありえません。しかし、だからこそ、他者がその論拠に対して異論を挟む(もっと言えば、他者である人の「コモンセンス」に反している、私の実感とは異なるから、この理論は誤っている、という主観的な異論)事ができ、それに対してその理論を提唱なり推奨する側からの、主観でない、客観性ある反論という行為を繰り返すことで限りなく『不確かさ』を少なくする努力が必要なのではないか?と思うのです。
論理が不確かだからこそ、論理を徹底させるべきなのではないか?ということです。似非相対主義者を毛嫌いするのは同意できますし、そんな薄っぺらい相対主義者は相対主義ですらないと思います。しかし、だからと言って、相対主義そのものを(文脈として)捨て、コモンセンスだけに依るのも危険なのではないか?とも思うのです。コモンセンスだってもちろん大切な実感です。日常生活や生きる事によって得られる実感を通した常識の持つ裏打ちは、何物にも代えがたいものでありますが、だからこそ、それだけではない、その道のプロフェッショナルとの会話で見えてくることもあり、共感があるのではないでしょうか?中野さんももちろん、相対主義そのものを批判しているわけではないのでしょうけれど、文脈的にはそう見えてしまいますし、薄っぺらい相対主義者なんて放おって置いて良いと思います。
科学的合理主義がすべての、崇拝するべき神ではもちろんないですし、合理主義の欠点も理解出来ますが、科学の進歩がもたらした世界に住む私は、そんなに簡単に合理主義を捨て去ることは出来ません。科学的合理主義の結果生まれた世界の利便性を使い、そのことによって日常生活が変わり、「常識」であるコモンセンスが変わっている世界であります。つまり科学の恩恵を受けておいてその欠点から合理主義すべてを批判(しているように文脈的にみえる)するのは、小林 秀雄が言う「虫の好かない大衆主義」における甘やかされた坊ちゃんが責任を引き受ける覚悟もなく批判するのと同等の行為であり、同意出来ませんでした。合理主義は確かに行き過ぎると問題もありますし、行き過ぎた部分も多いでしょうけれど、決して陰鬱な文明観ではなく、進化や進歩であり、止められないものであると思います。進化や進歩とは個人では選べない無慈悲な側面を持つものであり、そういう意味においては「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に出てくる奇妙な博士の説は正しいと思います、彼が進化とは選べないことが最も辛いことである、という趣旨の発言をするのですが、私もその説に同意するものです。
論語を正しく理解するものは、論語を読む前からその本質を自分の力で会得していたからだ、という一節は驚愕しました。たしかにそういう部分もありますね、非常にソリッドで踏み込んできる表現を使っているので、最初は肌に合わない感強かったですが、冷静になると確かにその通りです。続けて話される胸中の温気の話し、変幻自在に状況において自分で考え、意味を変えることを含んだ言葉、という考え方も驚かされた後で、深く納得した言葉です。こういう目からウロコの話しが多かったです。
そして考えさせられるのは、小林 秀雄が太平洋戦争での敗戦直後の座談会で「諸君は悧巧(りこう)だから、たんと反省なさるがよい、私は馬鹿だから反省などしない、と放言し、嘲笑された」という表現は含蓄が深いと思います。中野さんはこの言葉を紹介したあと、戦後60年以上が経過したにもかかわらずに、左派からは日本がいかに愚かで残酷であったか事実(あるいは事実であったと主張するもの)を並べ立てて反省を促し、右派は左派の挙げる証拠が歪曲や捏造であり日本は良いこともしたという事実(あるいは事実であったと主張するもの)を示そうとする、と言っています。そしてそのどちらもが、外的な客観的事実だけに固執していて、当時の日本人の内面に、悲劇に根ざしたものではないことを嘆いています。
中野さんの指摘、そして小林 秀雄の言葉は非常に深く、含蓄あるものであるのを充分に認めた(私の思いもよらない解釈があるかも知れない可能性も認めた)上で、それでも、ここに私は馬鹿にする拒絶という断絶があり、またその拒絶をカッコイイという、マッチョな嗜好を感じずにはいられませんでした。
私個人はこのコミュニケーションの断絶を善しとして(カッコイイと感じることは仕方が無いとしても)於いて、衆愚な、民主主義を嫌悪する、というやり方を狡猾と感じます。何故なら、小林の発言はその場に居た人々とのコミュニケーションを拒絶することであり、且つまたそのことをカッコイイと見えることを予想できるものであるからです。自分で考えることを善しとし、突き詰めて考えることの重要性を説く小林 秀雄が身を置く社会は、民主主義の上に成り立つ社会であり、今現在のところ、それ以外の政治形態よりも、まだまし、であるからこそ民主主義という政治形態を選択している以上、より民主主義をコントロールする術を学ばなければ、結果を受け入れる覚悟を持たなければ、民主主義が死ぬだけです。結局個々人が意識出来るようにならなければ何も変わらないわけですが、無関心を決め込むことや結果を受け入れる覚悟もなく文句だけを述べたために破滅するならば、それは皆が望んだ結果と言えると思います。私は受け入れがたいですし、中野さんがTPPの問題に対して例に挙げた斉藤 隆夫の反軍演説を説かれるのでありますから、中野さんだって民度の問題であることを理解されていると思います。当然小林 秀雄にだってそんな理屈は理解していたでしょうけれど、あえて、自分を馬鹿と言いい切ることで相手を揶揄するやり方(のように私には見えたので)はあまり同意出来ませんでした。
思い出されるのは、鶴見 俊輔著「戦時期日本の精神史-1931-1945年」(の感想はこちら)における転向です。転向ということをしない、省みないことの恐ろしさを感じます。転向は決して「裏切りによる悪」という一面的なモノではない捉え方が出来ると思うのです。「まちがいの中に含まれている真実の方が、事実の中に含まれている真実よりわれわれにとって重要」かもしれないという部分を切り捨てることに繋がりかねないように感じました。
言い切る形での威勢の良さ(というマッチョを後押しする『空気の醸成』)よりも、私個人は改める覚悟を持つ方に男気を感じます。人は神ではなく、誰しも間違うことがあるからです。しかし、もちろん決断する場合はよくよく考えた上での決断であって最初から間違えることを許容するかのようなやり方は間違っていると思います。最善を尽くした後の結果については支持した人々を含むすべての人に程度の差こそあれ、責任が発生するのではないか?と考えます。
私の『考える』とはこのような考え方であり、どのような事であっても懐疑主義的な視点も必要であると思いますし、またそういった視点の多数化であり、絶対に正しい、ということが出来ないからこそ続けるべき手段の数であり、中腰力(精神科医である春日 武彦先生の造語である、正解が出ない状況に耐え、簡単に答えにすがらない中途半端な状況に耐えるチカラのこと)であり、それこそ死ぬまで『考え』続けることであると思っています。思考停止ではない、今至った考えであり、決定的な出来事があればまた考えが変わるかも知れないが、今現在はこのように考えている、という不確かで弱いものであります。だからこそ、直感には簡単に頼ることができないという欠点もこの本を読んで気付かされました。
直感を信じる事の出来る強さは私のような考え方の上では育ち難い、ということも学べましたし、そもそも向いていない、とも思いました。
小林 秀雄も、中野さんも、私から見ると修行僧のようなものであり、自分を信じていく姿は神々しくさえ映ります。自分にはない視点を見せられたと感じました。異論ももちろんありましたが、気付かされることもたくさんあり、デイビッド・ヒューム、孔子、福沢 諭吉の痩我慢、マックス・ウェーバーの単純な結果責任ではない「責任倫理」、スペインの哲学者オルテガの存在、どれも膝を打つものでありました。
小林 秀雄が難解で読めなかった方、中野さんの鋭さを感じられた方、政治に興味の有る方にオススメ致します。
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